自分は、意味のある「余計な仕事」で力を付けてきたと考えている。「余計」というのは、「絶対にしなくてはならい仕事ではない」という点で「余計」だという意味である。
例えば、「学級文集づくり」がある。別に作らなくてはならないものではない。しかし、自分は、殆ど毎年作っている。子ども達にとっても、自分にとっても学びの記録として残るからである。
例えば、「各種の民間の研修会参加」である。今度の野口芳宏先生の講座もそうである。参加しなくても勤務とは関係ない。しかし、参加することで得られる学びは大きい。
例えば、最近たまに依頼されることのある「研修会への講師としての依頼」である。講師依頼を引き受けなくても勤務とは関係ない。しかし、自分自身の学びを整理して伝える貴重な機会である。
例えば、「研究授業」である。校内の研究授業以外にも、自分で研究授業を企画し、見ていただく機会を作るのである。これも別にしなくてもいい仕事だが、研究授業で得られる学びは大きい。
そうそう、このブログを書くことも意味のある「余計な仕事」である。書かなくても誰も困らない。しかし、自分にとっては何か学びの1つにはなっていると考えている。
意味のあるたくさんの「余計な仕事」で、自分は指導力を高めてきた。その分、仕事量は多くなる。
しかし、「努力すればするほど楽しくなるのが仕事」だと考えているので、はやく「仕事の道楽化」を進めるためにも、自分は今後も「余計な仕事」を続けていくだろう。
例えば、「学級文集づくり」がある。別に作らなくてはならないものではない。しかし、自分は、殆ど毎年作っている。子ども達にとっても、自分にとっても学びの記録として残るからである。
例えば、「各種の民間の研修会参加」である。今度の野口芳宏先生の講座もそうである。参加しなくても勤務とは関係ない。しかし、参加することで得られる学びは大きい。
例えば、最近たまに依頼されることのある「研修会への講師としての依頼」である。講師依頼を引き受けなくても勤務とは関係ない。しかし、自分自身の学びを整理して伝える貴重な機会である。
例えば、「研究授業」である。校内の研究授業以外にも、自分で研究授業を企画し、見ていただく機会を作るのである。これも別にしなくてもいい仕事だが、研究授業で得られる学びは大きい。
そうそう、このブログを書くことも意味のある「余計な仕事」である。書かなくても誰も困らない。しかし、自分にとっては何か学びの1つにはなっていると考えている。
意味のあるたくさんの「余計な仕事」で、自分は指導力を高めてきた。その分、仕事量は多くなる。
しかし、「努力すればするほど楽しくなるのが仕事」だと考えているので、はやく「仕事の道楽化」を進めるためにも、自分は今後も「余計な仕事」を続けていくだろう。