今日の「 お気に入り 」は 、筆者が知っても何の役にも立たない「 ムダ知識 」 満載 のインターネット
のフリー百科事典「 ウィキペディア 」から 、幕末の頃 、日本を捕鯨船の寄港地とするため 、鎖港して
いた日本国に 、開港 に向けての交渉を促す 大統領親書 を携えて 、遠路はるばる 、1853年7月 と
1854年2月の二度 、来日し 、二度目の来日の折り 、1854年3月に「 日米和親条約 」を
調印 し 、帰途 、7月に 琉球王国 とも 「 琉米修好条約 」を 締結して 、要領よく任務を全うした
アメリカ海軍 軍人 「 ペリーさん 」に関する記事 の 「 引用 」です 。
ここから引用はじめ 。
「 マシュー・カルブレイス・ペリー( Matthew Calbraith Perry , 1794年4月10日 – 1858年3月4日 )
は、アメリカ海軍の軍人 。兄はオリバー・ハザード・ペリー 。
江戸時代に艦隊を率いて鎖港をしていた日本へ来航し 、開港への交渉 を要求したことで知られる 。
来航当時の文書には「 ペルリ(漢字では彼理)」と表記されていた 。
生 涯
日本来航までロードアイランド州ニューポートで 、アメリカ海軍大尉の クリストファー・レイモンド・
ペリー と妻セーラの間に 三男 として生まれる 。1809年 、わずか 14歳9か月 で士官候補生の辞令を受け
アメリカ海軍に入隊 、1812年からの米英戦争 に 2人の兄とともに 参加する 。1833年 にブルックリン海軍
工廠の造船所長 となり 、1837年にアメリカ海軍で2隻目の蒸気フリゲート フルトン号 を建造し 、同年海軍
大佐 に昇進した 。1840年6月 には同 海軍工廠の司令官 となり、 代将 の地位を得る 。
1846年 に 米墨戦争 が勃発すると 、後年 日本に来航する ミシシッピ号 の 艦長 兼 本国艦隊副司令として
参加 、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮 、後には 本国艦隊の司令官 に昇進した 。
蒸気船 を主力とする海軍の強化策を進めると共に 、士官教育にあたり 、蒸気船海軍の父 ( Father of the
Steam Navy )とたたえられ 、海軍教育の先駆者 とされている 。
日本開国任務
1852年11月に 、東インド艦隊司令長官 に就任 、日本を捕鯨船の寄港地とするため交渉するよう
依頼する 大統領の親書 を手渡すよう指令 を与えられた 。同年11月 、アメリカ合衆国大統領
ミラード・フィルモア の親書を携えて バージニア州ノーフォーク を出航した 。フリゲート艦
ミシシッピ号を旗艦 とした 4隻の艦隊 は マデイラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロン・
シンガポール・マカオ・香港・上海・琉球( 沖縄 )を経由した 。
1853年7月8日( 嘉永6年6月3日 )、浦賀に入港した 。7月14日( 6月9日 )、幕府側が指定した
久里浜 に護衛を引き連れ上陸 、戸田氏栄 と 井戸弘道 に 大統領の親書 を手渡した 。ここでは
具体的な協議は執り行われず 開国の要求をしたのみで 、湾を何日か測量した後 、幕府から翌年
までの猶予を求められ 、食料など艦隊の事情もあり 、琉球へ寄港した 。
太平天国の乱 が起こり 、アメリカでの極東事情が変化する中 、1854年2月13日( 嘉永7年1月16日 )
に 旗艦 サスケハナ号 など 7隻の軍艦を率いて 現在の横浜市の沖 に迫り 、早期の条約締結を求め 、
3月31日( 3月3日 )に 神奈川で日米和親条約を調印 した 。またその後 、那覇に寄港して 、7月11日 、
琉球王国 とも 琉米修好条約 を 締結した 。その後 、艦隊は香港に向かった 。
帰国と退任
日本開港の大任を果たした後 、体調不良に悩まされていたペリーは 、香港で本国政府に帰国を申請し
許可を得た 。艦隊の指揮権を譲って 、ミシシッピ号 を去り 9月11日にイギリス船に便乗し 、西回り
の航路と陸路でニューヨークへの帰国の途に就いた 。インド洋 、 紅海 、地中海 を経て ヨーロッパ
大陸を鉄道で移動し ウイーン 、ベルリン 、ハーグ らで 多少の滞在保養を得て イギリスへ渡り 、
リヴァプールから大西洋を航海 、翌年1月12日 にニューヨークに帰着した 。東周りの航海で1月22日
にニューヨークへ帰着した ミシシッピ号 の艦上で 1月24日にペリーの 東インド艦隊司令長官の退任
式が挙行された 。
気象学への貢献
ペリー は 嘉永6年( 1853年 )7月 と 嘉永7年( 1854年 )2月 に 日本の開国を促すために日本遠征
( いわゆる 黒船来航 )を行ったが 、その航海途中で 1854年2月7日 - 12日 の 琉球から江戸湾に
至る航路 での 風向・気圧 、気温・水温 、海流の流向流速 を測定していた 。
ペリーは 航海時の嵐からの安全に意を尽くしており 、アメリカの 気象学者 ウィリアム・レッドフィ
ールドと交流があった 。ペリー が出版した「 ペリー艦隊日本遠征記( Narrative of the Expedition
of an American Squadron to the China Seas and Japan )」の 第2巻の中には日本遠征時の気象観測
データを用いた レッドフィールド による 太平洋の嵐の研究 が含まれている 。その中には 1853年7月
17日から28日まで 日本を離れた サスケハナ号 と ミシシッピ号 が遭遇した 台風の位置記録と気圧計
の記録 、そして台風の特徴の分析もある 。
晩 年
日本遠征記などの出版に注力をした 。また 、アルコール使用障害 、痛風 、リウマチ を患っていた 。
1858年3月4日 ニューヨークで死去 、63歳だった 。墓所は ロードアイランド州アイランド墓地 にあり 、
娘アンナとともに納められている 。日本 は ペリーが帰国した後 、15年に及ぶ動乱の幕末 を迎える
こととなった 。
人 物
・ 奴隷の帰国事業に尽力し 、リベリアでは著名である 。
・ ペリー を実見した 菅野八郎 は 、身長 を 六尺四 - 五寸( 約 192 - 195 cm )と記録している 。
・ 大変家族思いで 、子どもたちが兄弟喧嘩をしないよう 、強く戒める手紙を書き残している 。
・ 公式な記録は残っていないが 、鬘 を着用していた ことを複数の関係者が証言している 。
・ 水兵や海兵隊員 、他の士官たちからペリーの威張った態度 、挨拶や合図の声が熊のように大声で
聞こえるので「 熊おやじ 」( Old Bruin )と隠れてあだ名されていた 。
・ 1819年には ニューヨーク市にて フリーメイソン に加入した 。
・ ペリーは 日本開国任務 が与えられる 1年以上前の 1851年1月 、日本遠征の独自の基本計画を海軍
長官 ウィリアム・アレクサンダー・グラハム に提出していた 。そこでは 、以下のように述べている 。
・ 任務成功のためには 4隻の軍艦が必要で 、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること 。
・ 日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが 、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できる
だろう 。
・ 中国人に対したのと同様に 、日本人に対しても『 恐怖に訴える方が 、友好に訴えるより多くの利点が
あるだろう 。
オランダ が 妨害することが想定されるため 、長崎での交渉は避けるべき 。』
遺 産
ペリー上陸の地 である 神奈川県横須賀市久里浜 の「 ペリー公園 」には「 上陸記念碑 」と
「 ペリー記念館 」が建てられている 。
ペリーは 、和親条約を締結後 、安政元年( 1854年 )に 、開港される 函館港 に下検分のため
として来航した 。来航150年を前に 、函館に「 ペリー提督来航記念碑 」が立てられた 。
浦賀来航( 西暦1853年 )の際に幕府に旗を2本贈っているが 、旗の種類及び贈った目的は不明
である 。ペリーの交渉態度が高圧的かつ恫喝的と見られたせいか 、砲艦外交 と呼ばれる 。
幕府へ電信機と模型機関車を献上した 。
4分の1の大きさの蒸気機関車の模型 は 、円形のレールの上を実際に走らせ 、人々を驚かせた 。
電信機の電線 を1 km 程 引き 、公開実験 を行った 。このとき 、『 YEDO , YOKOHAMA 』
( 江戸 、横浜 )と 打った 。針金を通して一瞬にして言葉を送る機械 に 、当時の人たちは
大変驚いた 。この エンボッシングモールス電信機 は 逓信総合博物館( 2013年閉館 )を経て
郵政博物館( 2014年開館 )に伝えられている 。
1853年の来航時に旗艦「サスケハナ」号 に掲げられていた 星条旗 は 、1945年(昭和20年)
9月2日 の 日本の降伏文書調印時に 戦艦ミズーリ 上に掲げられた 。
ペリー艦隊
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に江戸湾の浦賀沖に姿を現したペリー率いるアメリカ海軍
東インド艦隊の4隻の軍艦 。日本人は これを「 黒船 」「 くろふね 」と呼んだ 。
一般には「 東インド艦隊 」と呼ばれるが 、「 フリート 」 ( fleet ) ではなく
「 スコードロン 」 ( squadron ) であるため 、現代の軍事用語では「 小艦隊( または
戦隊 )」に該当する 。ただし 、当時のアメリカ海軍にはフリートは存在せず 、軍艦の
集団としては スコードロン が最大の単位であった 。
『 泰平の眠りを覚ます上喜撰( じょうきせん )たつた四杯で夜も眠れず 』と 狂歌 に詠
まれたが 、来航した 黒船4隻のうち 蒸気船 は2隻のみ であった 。
☆ 旗艦:『 サスケハナ 』( USS Susquehanna ) 1850年12月24日 フィラデルフィア海軍工廠
で竣工
外輪式フリゲート:水線長76メートル 、満載排水量 3,824トン 、乗員 300名 。
装備 10インチ砲 3門 、8インチ砲 6門
☆ 『 ミシシッピ 』( USS Mississippi )
外輪式フリゲート:水線長 70メートル 、満載排水量 3,230トン
装備 10インチ砲 2門 、8インチ砲 8門
☆ 『 プリマス 』( USS Plymouth )
帆船:水線長 45メートル 、満載排水量 889トン
装備 8インチ砲 8門 、32ポンド砲 18門
☆ 『 サラトガ 』( USS Saratoga )
帆船:水線長 45メートル 、満載排水量 896トン
装備 8インチ砲 4門 、32ポンド砲 18門
階級に関して
ペリーの訪日当時の階級は“ Commodore ”である 。
古来の欧州の海軍においては 、個々の戦闘艦の指揮官である Captain( 艦長 / 大佐)
が平時の最上位であり 、戦時に複数の戦闘艦が集められて艦隊が編成された場合の司令
官として Admiral が任命されていた 。その後 Admiral は階級として固定され 、臨時
に複数の戦闘艦の指揮官が必要になる場合には 、艦長のうち最先任の者が Commodore
( 代将 )としてこれを率いていた 。そして 、19世紀当時には Commodore も階級と
なっていた 。
一方 、欧州の海軍とは異なり 、アメリカ海軍においては設立以来1人の Admiral も
誕生していなかった 。
制度としては存在していたものの 、Admiral に昇進するには議会の承認が必要であり 、
現実に最初の Admiral が認められたのは南北戦争中の1862年であった( この時点では
ペリーはすでに死亡している )。したがって 、ペリーの肩書きも Commodore( 代将 )
であり、Admiral ではなかった 。
アメリカ海軍においても 代将 は一時的な肩書きに過ぎず 、ペリーは 東インド艦隊
の指揮をとるために代将に任命されたもので 、任務が完了した後は 正規の階級 である
大佐 に戻っている 。
大統領の親書には 、ペリーはアメリカ海軍の最高位の軍人であると記載されていた 。
当時の日本の文献では『 水師提督マツテウセベルリ 』との記載がある( 合衆國水師
提督口上書 )。
提督は 、清朝の最高位の武官の官職名であり 、水師提督は海軍の最高位の軍人である
事を意味する 。
ペリーの肩書きを表すのに 、同じ外国である清朝の武官名を借用したのである 。
これ以降 提督は海軍の最高位を示し 、現代では英語の『 Commodore 』、『 Flag
officer 』及び敬称としての『 admiral 』の和訳語となっている。
艦 名
兄のオリバーの名前は、オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートのネーム
シップとなるなど、これまで6隻に使われたが 、最近までアメリカ海軍にはマシュー・
ペリーの名前を持つ艦はなかった 。しかし、2010年に就役したルイス・アンド・クラ
ーク級貨物弾薬補給艦の9番艦が マシュー・ペリー と命名された。同艦は2011年の
東北地方太平洋沖地震の救援活動に参加した 。 」
引用はここまで 。
来日した 1853年7月 は 、59歳のとき 。翌年 、日本からの帰途 、香港 で 下船し 、
イギリス船に乗り換えて 、西廻りで 、 欧州各国にも 保養を兼ねて 立ち寄った後 、帰国 。
ニューヨークに帰着した 1855年1月は 、御年60歳 。
3年後の 1858年3月 、64歳 になるちょっと前に 63歳 で亡くなっています 。
「 北亜墨加人物 ペルリ 」こと ペリーさんの あだ名は 、「 熊おやじ 」( Old Bruin )、 ・・・ 鬘 、 被ってたそうな 。
「 禿げで死んだ人はいない 。 」