「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

くろふね Long Good-bye 2021・11・01

2021-11-01 05:59:00 | Weblog




  今日の「 お気に入り 」は 、筆者が知っても何の役にも立たない「 ムダ知識 」 満載 のインターネット

  のフリー百科事典「 ウィキペディア 」から 、幕末の頃 、日本を捕鯨船の寄港地とするため 、鎖港して

  いた日本国に 、開港 に向けての交渉を促す 大統領親書 を携えて 、遠路はるばる 、1853年7月 と

  1854年2月の二度 、来日し 、二度目の来日の折り 、1854年3月に「 日米和親条約 」を

  調印 し 、帰途 、7月に 琉球王国 とも 「 琉米修好条約 」を 締結して 、要領よく任務を全うした

  アメリカ海軍 軍人 「 ペリーさん 」に関する記事 の 「 引用 」です 。


  ここから引用はじめ 。

   「 マシュー・カルブレイス・ペリー( Matthew Calbraith Perry , 1794年4月10日 – 1858年3月4日 )

    
は、アメリカ海軍の軍人 。兄はオリバー・ハザード・ペリー 。

    江戸時代に艦隊を率いて鎖港をしていた日本へ来航し 、開港への交渉 を要求したことで知られる 。

    来航当時の文書には「 ペルリ(漢字では彼理)」と表記されていた 。


    生 涯

     日本来航までロードアイランド州ニューポートで 、アメリカ海軍大尉の クリストファー・レイモンド・

    ペリー と妻セーラの間に 三男 として生まれる
1809年 、わずか 14歳9か月 で士官候補生の辞令を受け

    アメリカ海軍に入隊
、1812年からの米英戦争 に 2人の兄とともに 参加する 。1833年 にブルックリン海軍

    工廠の造船所長 となり 、1837年にアメリカ海軍で2隻目の蒸気フリゲート フルトン号 を建造し 、同年海軍

    大佐 に昇進した
1840年6月 には同 海軍工廠の司令官 となり、 代将 の地位を得る

     1846年 に 米墨戦争 が勃発すると 、後年 日本に来航する ミシシッピ号 の 艦長 兼 本国艦隊副司令として

    参加 、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮 、後には 本国艦隊の司令官 に昇進した


     蒸気船 を主力とする海軍の強化策を進めると共に 、士官教育にあたり 、蒸気船海軍の父 ( Father of the

    Steam Navy )とたたえられ 、海軍教育の先駆者 とされている



    日本開国任務

     1852年11月に 、東インド艦隊司令長官 に就任 、日本を捕鯨船の寄港地とするため交渉するよう

    依頼する 大統領の親書 を手渡すよう指令 を与えられた
同年11月 、アメリカ合衆国大統領

    ミラード・フィルモア の親書を携えて バージニア州ノーフォーク を出航した 。フリゲート艦

    ミシシッピ号を旗艦 とした 4隻の艦隊 は マデイラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロン・

    シンガポール・マカオ・香港・上海・琉球( 沖縄 )を経由した


     1853年7月8日( 嘉永6年6月3日 )、浦賀に入港した
。7月14日( 6月9日 )、幕府側が指定した

    久里浜 に護衛を引き連れ上陸 、戸田氏栄 と 井戸弘道 に 大統領の親書 を手渡した 。ここでは

    具体的な協議は執り行われず 開国の要求をしたのみで 、湾を何日か測量した後 、幕府から翌年

    までの猶予を求められ 、食料など艦隊の事情もあり 、琉球へ寄港した


     太平天国の乱 が起こり 、アメリカでの極東事情が変化する中 、1854年2月13日( 嘉永7年1月16日 )

    に 旗艦 サスケハナ号 など 7隻の軍艦を率いて 現在の横浜市の沖 に迫り 、早期の条約締結を求め 、

    3月31日( 3月3日 )に 神奈川で日米和親条約を調印 した
。またその後 、那覇に寄港して 、7月11日 、

    琉球王国 とも 琉米修好条約 を 締結した 。その後 、艦隊は香港に向かった



    帰国と退任

     日本開港の大任を果たした後 、体調不良に悩まされていたペリーは 、香港で本国政府に帰国を申請し

    許可を得た 。艦隊の指揮権を譲って 、ミシシッピ号 を去り 9月11日にイギリス船に便乗し 、西回り

    の航路と陸路でニューヨークへの帰国の途に就いた 。インド洋 、 紅海 、地中海 を経て ヨーロッパ

    大陸を鉄道で移動し ウイーン 、ベルリン 、ハーグ らで 多少の滞在保養を得て イギリスへ渡り 、

    リヴァプールから大西洋を航海 、翌年1月12日 にニューヨークに帰着した
。東周りの航海で1月22日

    にニューヨークへ帰着した ミシシッピ号 の艦上で 1月24日にペリーの 東インド艦隊司令長官の退任

    式が挙行された



    気象学への貢献

     ペリー は 嘉永6年( 1853年 )7月 と 嘉永7年( 1854年 )2月 に 日本の開国を促すために日本遠征

    ( いわゆる 黒船来航 )を行ったが 、その航海途中で 1854年2月7日 - 12日 の 琉球から江戸湾に

    至る航路 での 風向・気圧 、気温・水温 、海流の流向流速 を測定していた 。

     ペリーは 航海時の嵐からの安全に意を尽くしており 、アメリカの 気象学者 ウィリアム・レッドフィ

    ールドと交流があった 。ペリー が出版した「 ペリー艦隊日本遠征記( Narrative of the Expedition

    of an American Squadron to the China Seas and Japan )
」の 第2巻の中には日本遠征時の気象観測

    データを用いた レッドフィールド による 太平洋の嵐の研究 が含まれている 。その中には 1853年7月

    17日から28日まで 日本を離れた サスケハナ号 と ミシシッピ号 が遭遇した 台風の位置記録と気圧計

    の記録 、そして台風の特徴の分析もある 。


    晩 年

     日本遠征記などの出版に注力をした 。また 、アルコール使用障害 、痛風 、リウマチ を患っていた 。

    1858年3月4日 ニューヨークで死去 、63歳だった 。墓所は ロードアイランド州アイランド墓地 にあり 、

    娘アンナとともに納められている 。日本 は ペリーが帰国した後 、15年に及ぶ動乱の幕末 を迎える

    こととなった



    人 物

    ・ 奴隷の帰国事業に尽力し 、リベリアでは著名である 。

    ・ ペリー を実見した 菅野八郎 は 、身長 を 六尺四 - 五寸( 約 192 - 195 cm )と記録している 。

    ・ 大変家族思いで 、子どもたちが兄弟喧嘩をしないよう 、強く戒める手紙を書き残している 。

    ・ 公式な記録は残っていないが 、鬘 を着用していた ことを複数の関係者が証言している 。

    ・ 水兵や海兵隊員 、他の士官たちからペリーの威張った態度 、挨拶や合図の声が熊のように大声で

     聞こえるので「 熊おやじ 」( Old Bruin )と隠れてあだ名されていた 。

    ・ 1819年には ニューヨーク市にて フリーメイソン に加入した 。

    ・ ペリーは 日本開国任務 が与えられる 1年以上前の 1851年1月 、日本遠征の独自の基本計画を海軍

     長官 ウィリアム・アレクサンダー・グラハム に提出していた 。そこでは 、以下のように述べている 。

      ・ 任務成功のためには 4隻の軍艦が必要で 、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること 。

      ・ 日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが 、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できる

       だろう 。

      ・ 中国人に対したのと同様に 、日本人に対しても『 恐怖に訴える方が 、友好に訴えるより多くの利点が

       あるだろう 。

      オランダ が 妨害することが想定されるため 、長崎での交渉は避けるべき 。』


    遺 産

     ペリー上陸の地 である 神奈川県横須賀市久里浜 の「 ペリー公園 」には「 上陸記念碑 」と

    「 ペリー記念館 」が建てられている 。

     ペリーは 、和親条約を締結後 、安政元年( 1854年 )に 、開港される 函館港 に下検分のため

    として来航した 。来航150年を前に 、函館に「 ペリー提督来航記念碑 」が立てられた 。

     浦賀来航( 西暦1853年 )の際に幕府に旗を2本贈っているが 、旗の種類及び贈った目的は不明

    である 。ペリーの交渉態度が高圧的かつ恫喝的と見られたせいか 、砲艦外交 と呼ばれる 。

    幕府へ電信機と模型機関車を献上した 。

     4分の1の大きさの蒸気機関車の模型 は 、円形のレールの上を実際に走らせ 、人々を驚かせた 。

     電信機の電線 を1 km 程 引き 、公開実験 を行った 。このとき 、『 YEDO , YOKOHAMA 』

    ( 江戸 、横浜 )と 打った 。針金を通して一瞬にして言葉を送る機械 に 、当時の人たちは

    大変驚いた 。この エンボッシングモールス電信機 は 逓信総合博物館( 2013年閉館 )を経て

    郵政博物館( 2014年開館 )に伝えられている 。

     1853年の来航時に旗艦「サスケハナ」号 に掲げられていた 星条旗 は 、1945年(昭和20年)

    9月2日 の 日本の降伏文書調印時に 戦艦ミズーリ 上に掲げられた



    ペリー艦隊

     嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に江戸湾の浦賀沖に姿を現したペリー率いるアメリカ海軍

    東インド艦隊の4隻の軍艦 。日本人は これを「 黒船 」「 くろふね 」と呼んだ 。

     一般には「 東インド艦隊 」と呼ばれるが 、「 フリート 」 ( fleet ) ではなく

    「 スコードロン 」 ( squadron ) であるため 、現代の軍事用語では「 小艦隊( または

    戦隊 )」に該当する 。ただし 、当時のアメリカ海軍にはフリートは存在せず 、軍艦の

    集団としては スコードロン が最大の単位であった 。

     『 泰平の眠りを覚ます上喜撰( じょうきせん )たつた四杯で夜も眠れず 』と 狂歌 に詠

    まれたが 、来航した 黒船4隻のうち 蒸気船 は2隻のみ であった

   ☆ 旗艦:『 サスケハナ 』( USS Susquehanna ) 1850年12月24日 フィラデルフィア海軍工廠
    で竣工
      外輪式フリゲート:水線長76メートル 、満載排水量 3,824トン 、乗員 300名 。
      装備 10インチ砲 3門 、8インチ砲 6門

   ☆ 『 ミシシッピ 』( USS Mississippi )
      外輪式フリゲート
:水線長 70メートル 、満載排水量 3,230トン
      装備 10インチ砲 2門 、8インチ砲 8門

   ☆ 『 プリマス 』( USS Plymouth )
      帆船
:水線長 45メートル 、満載排水量 889トン
      装備 8インチ砲 8門 、32ポンド砲 18門

   ☆ 『 サラトガ 』( USS Saratoga )
      帆船
:水線長 45メートル 、満載排水量 896トン
      装備 8インチ砲 4門 、32ポンド砲 18門


    階級に関して

     ペリーの訪日当時の階級は“ Commodore ”である 。

     古来の欧州の海軍においては 、個々の戦闘艦の指揮官である Captain( 艦長 / 大佐)

    が平時の最上位であり 、戦時に複数の戦闘艦が集められて艦隊が編成された場合の司令

    官として Admiral が任命されていた 。その後 Admiral は階級として固定され 、臨時

    に複数の戦闘艦の指揮官が必要になる場合には 、艦長のうち最先任の者が Commodore

    ( 代将 )としてこれを率いていた 。そして 、19世紀当時には Commodore も階級と

    なっていた 。

     一方 、欧州の海軍とは異なり 、アメリカ海軍においては設立以来1人の Admiral も

    誕生していなかった 。

     制度としては存在していたものの 、Admiral に昇進するには議会の承認が必要であり 、

    現実に最初の Admiral が認められたのは南北戦争中の1862年であった( この時点では

    ペリーはすでに死亡している )。したがって 、ペリーの肩書きも Commodore( 代将 )

    であり、Admiral ではなかった


     アメリカ海軍においても 代将 は一時的な肩書きに過ぎず 、ペリーは 東インド艦隊

    の指揮をとるために代将に任命されたもので 、任務が完了した後は 正規の階級 である

    大佐 に戻っている


     大統領の親書には 、ペリーはアメリカ海軍の最高位の軍人であると記載されていた

     当時の日本の文献では『 水師提督マツテウセベルリ 』との記載がある( 合衆國水師

    提督口上書 )。

     提督は 、清朝の最高位の武官の官職名であり 、水師提督は海軍の最高位の軍人である

    事を意味する 。

     ペリーの肩書きを表すのに 、同じ外国である清朝の武官名を借用したのである 。

     これ以降 提督は海軍の最高位を示し 、現代では英語の『 Commodore 』、『 Flag

    officer 』及び敬称としての『 admiral 』の和訳語となっている。


    艦 名

     兄のオリバーの名前は、オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートのネーム

    シップとなるなど、これまで6隻に使われたが 、最近までアメリカ海軍にはマシュー・

    ペリーの名前を持つ艦はなかった 。しかし、2010年に就役したルイス・アンド・クラ

    ーク級貨物弾薬補給艦の9番艦が マシュー・ペリー と命名された。同艦は2011年の

    東北地方太平洋沖地震の救援活動に参加した 。 」



    引用はここまで 。

    来日した 1853年7月 は 、59歳のとき 。翌年 、日本からの帰途 、香港 で 下船し 、

    イギリス船に乗り換えて 、西廻りで 、 欧州各国にも 保養を兼ねて 立ち寄った後 、帰国 。

    ニューヨークに帰着した 1855年1月は 、御年60歳 。

    3年後の 1858年3月 、64歳 になるちょっと前に 63歳 で亡くなっています 。

    「 北亜墨加人物 ペルリ 」こと ペリーさんの あだ名は 、「 熊おやじ 」( Old Bruin )、 ・・・ 鬘 、 被ってたそうな 。

    「 禿げで死んだ人はいない 。 」
    

                    
コメント
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