今日の「 お気に入り 」は 、今読み進めている本の
中から 、 備忘のため 、抜き書きした 、読み応えの
ある文章 。
引用はじめ 。
「 主殿は夜具の上に起き直り 、右腕で脇息
に凭(もた)れていた 。十帖(じょう)ほどの
その座敷は 、寝間ではなく 、客との対談
にも使っているとみえ 、本床には書の大副
(たいふく)が掛けてあり 、香炉からは薄く
煙がゆらめいていた 。青銅の火鉢が一つあ
るだけで 、庭に面した障子があけてあるた
め 、戸外と同じくらい空気が冷えてい 、正
坐している主水正は 、手足の指先から 、寒
さが全身にしみとおるのを感じた 。
『 そうか 、殿は御無事だったか 』と主殿
は乾いた声で云った 、『 それはよかった 、
ごようすを聞かせてもらおう 』
主水正は語った 。麻布の下屋敷で会った
ときの飛騨守昌治の云ったことや 、動作な
どについて 、できるだけ詳しく話した 。
主殿は非常に感動したらしく 、聞き終って
からも 、暫くはなにも云わず 、息をひそ
め 、眼を伏せたままじっとしていた 。う
っかりなにか云うと感情が乱れて 、涙でも
こぼしそうになるため 、強い感動がしずま
るのを待っている 、というようすであった 。
―― なんの病気で 、どのくらい寝ていた
かは知らないが 、主殿は痩せがめだってい
るだけで 、顔だちにも姿勢にも 、老衰と
か 、老耄したとかいう感じは 、殆んどな
かった 。としはもう七十歳を越したであ
ろう 、城代を免ぜられたことは 、相当に
大きな打撃だったに相違ないし 、取って
代った六条一味の『 御新政 』なるものに
対しても 、骨に徹する怒りを感じたこと
だろう 。それにもかかわらず 、いま病床
に坐している主殿には 、あのころの強い
自省心と 、人を寄せつけないようなきび
しい威厳とが 、そのまま少しも変らずに
残っていた 。
『 それはよかった 』やがて主殿が云った 、
『 あまりに直情で 、人の意見に構わずや
りたいことをやる 、という御性格が私に
は気がかりであった 、だが 、そこもとの
話を聞いて心がおちついた 、みごとな御
成長ぶりだ 、そこもとたちは勤めがいの
ある殿を持ったぞ 』
主水正は低頭し 、改めて 、今日ここへ
来た理由を聞いてもらいたいと云った 。
主殿はゆっくりと頭を振り 、それは聞く
まいと答えた 。
『 私はもう役には立たない 』と主殿は
感情のない声で云った 、『 時代は変っ
た 、あの堰堤工事が始まったとき 、私
はもう自分の時代の去ったことを知った 』
『 しかし道の案内があれば 、山へ登る
のに不必要な危険を避けることができる
のではありませんか 』
主殿は振り向き 、するどい眼つきで主
水正の顔をみつめた 、『 では危険を避
けて 、楽に山へ登るつもりなのか 』
『 事が多すぎるのです 』
それがどうした 、とでも云いたげに 、
主殿は屹と口をひきむすんだ 。
『 御新政改廃に当っては 』と主水正は
構わずに云った 、『 順次に手をつける
のでなく 、全般にわたって同時に決行
しなければならないのです 、時代は変
ったかもしれません 、それは仰しゃる
とおりだと致しましょう 、しかし三代
も続いて御城代を勤めてこられた御経験
が 、すべて役に立たなくなった 、とお
考えになったわけではないと存じます 』
主殿はひきむすんだ口を少しゆるめ 、
なにか珍しいものでも見るような眼つき
で 、暫く主水正の表情を見まもっていた 。
『 よし 』と主殿は云った 、『 私でお
役に立つことがあったら答えよう 、第一
はなんだ 』
『 卍屋の件です 』
『 桑島に対する処置を使えないか 』
『 御金御用商としての卍屋は 、三井の
筋を引いているばかりでなく 、堂島か
らも資金が入っております 』と主水正
は云った 、『 単にそれだけではあり
ません 、五人衆の制度にも多くの欠点
があり 、不当な利益をぬすまれたよう
です 、けれども五人衆の利得はこの領
内に蓄積され 、いずれかのかたちで御
領分を潤し 、役に立ってまいりました 、
それが卍屋の場合には反対に 、取得し
た利益は殆んど上方へ持ってゆかれて
しまう 、そしてかれらは通貨の移動を
糊塗するため 、銭札の増発という手を
使っています 、したがって桑島に対す
る処置と同一では 、藩の財政は取返し
のつかぬことになると思われるのです
が 』
主殿の唇に微笑がうかんだ 、『 ここ
で詳しい詮索をしてもしようがない 、
だがそこまで調べがゆき届いているなら 、
迷うことはないだろう 』
『 天明四年 、幕府でとられた非常法が 、
この場合もっとも適していると存じます 』
『 簡単ではないぞ 』主殿は頷いて云った 、
『 できると思うか 』
『 迷うことはない 、と仰るのをいまうかが
いました 』
『 おまえの口ぶりで 、覘(ねら)っている
ことにほぼ見当がついたからだ 、天明の
非常法はあとに多くの問題を残し 、非難
も少なくはなかった 、おそらく卍屋どもも
知っているだろうし 、その対策も考えてあ
ると思うが 、その点はどうだ 』
『 それには打つ手が用意してございます 』
聞こう 、というように主殿が脇息を引寄
せたとき 、家扶の岡野吾兵衛が 、蔽いを
掛けた膳を持ってはいって来 、主殿の夜具
の脇へ据えながら 、食事の時刻である 、
と告げた 。主殿は眉をひそめ 、手を振り
ながらあとだと云った 。岡野家扶は救いを
求めるように 、主水正の眼をみつめた 。
『 医師からきびしく云われているのです 』
と岡野は主水正に云った 、『 食養生をき
ちんとなさらなければ 、御恢復はおくれ
るばかり 、いまはどんなに高貴な薬より
も 』
『 医者の一つ覚えだ 』主殿は遮って 、
首を振りながら云った 、『 枯れかかって
いる老木に 、濃い根肥(ねごえ)をやれば
どうなると思う 、老木にはその根肥を吸
いあげる力はない 、余った養分には虫が
付くか 、木そのものを腐らせるか 、いず
れにせよ逆に 、老木の枯れるのを早める
ばかりだ 』
これは木には限らない 、生命あるもの
すべてに通ずる原則だと思う 。ちかごろ
新らしがる医者の一部に 、老人ほど食事
に厚味の物をとるがよい 、それが躯(から
だ)を若わかしく保つ法だ 、などと云う者
がある 。しかし老躰(ろうたい)は老躰で
あることが自然であり 、厚味の食をとる
ことによって若わかしさを保つとすれば 、
それは反自然であり 、老躰に鞭打つ結果
になる 。そこまで云って 、主殿は右手を
大きく左右に振った 。
『 ばかばかしい 、どうしてこんな話にな
ったのだ 』と云って主殿は老家扶に振り
向いた 、『 いま大切な話をしているんだ 、
これは持ってさがれ 』
主水正はとりなそうとしたが 、思い止(と
ど)まり 、岡野家扶は落胆したように 、両
肩をゆりあげたのち膳を持って去った 。
『 気にするな 』と主殿が云った 、『 いい
からあとを聞こう 』
それから半刻あまリ 、主水正の云うことを
主殿はよく聞き 、熱心に意見を述べた 。も
う自分の時代は去った 、という言葉や 、長
い病臥生活にもかかわらず 、主殿は藩の情
勢もよく知っていたし 、問題に対する判断
も正確であり 、立派な見識のあるものであ
った 。―― この人は少しも条件に左右され
てはいない 。六条一味によって城代を免ぜ
られたが 、城代家老としての人間を変える
ことはできなかった 。もちろん異例ではな
いだろうが 、七十歳を越した年齢と 、いま
置かれている立場から考えると 、やはり舌
を巻かずにはいられなかった 。
『 あの人はいまでも現役の城代家老だ 』滝
沢邸を辞して出ながら 、主水正は太息(とい
き)をつきながら呟いた 、『 ―― 枯れかけ
た老木に根肥を入れるな 、老いることを自
然に受入れるが 、それは肉躰のことで 、
精神的には無関係なのだ 、それをあの人は
現実に見せてくれたのだ 』 」
引用おわり 。
( ´_ゝ`) フー 。^ ^ 。
( ついでながらの
筆者註: 勤め人 辞めて 二十年にもなるのに 、未だ
に他人(ひと)さまの書いたものに対するチェ
ック癖が止みません 、当人がしょっちゅう
書き間違え 、読み間違いもする癖して 、
読書中の電子書籍の中に 、そんな間違い箇
所を発見して 、たくさんの専門のひとたち
の眼が行き届かないこともあるのだとびっく
りです 。版を重ねた古典的な時代小説でも 、
おそらくは電子化にあたって 、こういうこ
とが起こりうるのです 、馴れはこわい 。
件( くだん )の文章は 、次の通りで 、通読
してみれば意味が通らないので 、どこかの
だれかが 、おかしいと気づく筈なのに 。
「『 おそくなりました 』 はいって来た二人の
男の人が辞儀をして云った 、『 安西さまの
字があまり御達筆なものですから 、阿部重(あ
べじゅう)といってたずね廻(まわ)ったんです 、
そのうちに阿部重(あべじゅう)ではないかと云
われて 、ようやく辿(たど)り着いたわけです 。』
『 まあ寄れ 』波岡五郎太夫が 、設けてある席
を手で示した 、『 鳥越で重の付く料理茶屋は
ほかにはない 、それでよく役目が勤まるな 』
『 まあお手柔らかに 』安西左京が二人を席に
つかせながら 、とりなすように云った 、『 か
れらはこういうところには馴染が(なじみ)がな
いのです 、さあ女ども 、二人に酌をしてやれ 』 」
この文章は 、重のつく料理茶屋「 阿波重にて 」と
いう小見出しのついた 章 の頭にあります 。二つあ
る「 阿部重 」の二番目は 、「 阿部重(あべじゅう) 」
でなく「 阿波重(あわじゅう) 」でないと意味が通り
ません 。版元にこの間違いに気づくチェッカーがい
なかったんでしょうね 、きっと 。物語の本筋でない
箇所だけに 校閲馴れした みんなが 見落としたんでし
ょう 。行間 、文脈を読まない AI にチェックさせて
も間違うかもね 。)