「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

阿部重か阿波重か Long Good-bye 2024・04・20

2024-04-20 05:30:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、今読み進めている本の

 中から 、 備忘のため 、抜き書きした 、読み応えの

 ある文章 。

  引用はじめ 。

  「 主殿は夜具の上に起き直り 、右腕で脇息
  に凭(もた)れていた 。十帖(じょう)ほどの
  その座敷は 、寝間ではなく 、客との対談
  にも使っているとみえ 、本床には書の大副
  (たいふく)が掛けてあり 、香炉からは薄く
  煙がゆらめいていた 。青銅の火鉢が一つあ
  るだけで 、庭に面した障子があけてあるた
  め 、戸外と同じくらい空気が冷えてい 、正
  坐している主水正は 、手足の指先から 、寒
  さが全身にしみとおるのを感じた 。

   『 そうか 、殿は御無事だったか 』と主殿
  は乾いた声で云った 、『 それはよかった 、
  ごようすを聞かせてもらおう 』
   主水正は語った 。麻布の下屋敷で会った
  ときの飛騨守昌治の云ったことや 、動作な
  どについて 、できるだけ詳しく話した 。
  主殿は非常に感動したらしく 、聞き終って
  からも 、暫くはなにも云わず 、息をひそ
  め 、眼を伏せたままじっとしていた 。う
  っかりなにか云うと感情が乱れて 、涙でも
  こぼしそうになるため 、強い感動がしずま
  るのを待っている 、というようすであった 。

  ―― なんの病気で 、どのくらい寝ていた
  かは知らないが 、主殿は痩せがめだってい
  るだけで 、顔だちにも姿勢にも 、老衰と
  か 、老耄したとかいう感じは 、殆んどな
  かった 。としはもう七十歳を越したであ
  ろう 、城代を免ぜられたことは 、相当に
  大きな打撃だったに相違ないし 、取って
  代った六条一味の『 御新政 』なるものに
  対しても 、骨に徹する怒りを感じたこと
  だろう 。それにもかかわらず 、いま病床
  に坐している主殿には 、あのころの強い
  自省心と 、人を寄せつけないようなきび
  しい威厳とが 、そのまま少しも変らずに
  残っていた 。

  『 それはよかった 』やがて主殿が云った 、
  『 あまりに直情で 、人の意見に構わずや
  りたいことをやる 、という御性格が私に
  は気がかりであった 、だが 、そこもとの
  話を聞いて心がおちついた 、みごとな御
  成長ぶりだ 、そこもとたちは勤めがいの
  ある殿を持ったぞ 』

   主水正は低頭し 、改めて 、今日ここへ
  来た理由を聞いてもらいたいと云った 。
  主殿はゆっくりと頭を振り 、それは聞く
  まいと答えた 。

  『 私はもう役には立たない 』と主殿は
  感情のない声で云った 、『 時代は変っ
  た 、あの堰堤工事が始まったとき 、私
  はもう自分の時代の去ったことを知った 』
  『 しかし道の案内があれば 、山へ登る
  のに不必要な危険を避けることができる
  のではありませんか 』
   主殿は振り向き 、するどい眼つきで主
  水正の顔をみつめた 、『 では危険を避
  けて 、楽に山へ登るつもりなのか 』
  『 事が多すぎるのです 』
   それがどうした 、とでも云いたげに 、
  主殿は屹と口をひきむすんだ 。
  『 御新政改廃に当っては 』と主水正は
  構わずに云った 、『 順次に手をつける
  のでなく 、全般にわたって同時に決行
  しなければならないのです 、時代は変
  ったかもしれません 、それは仰しゃる
  とおりだと致しましょう 、しかし三代
  も続いて御城代を勤めてこられた御経験
  が 、すべて役に立たなくなった 、とお
  考えになったわけではないと存じます 』

   主殿はひきむすんだ口を少しゆるめ 、
  なにか珍しいものでも見るような眼つき
  で 、暫く主水正の表情を見まもっていた 。
  『 よし 』と主殿は云った 、『 私でお
  役に立つことがあったら答えよう 、第一
  はなんだ 』
  『 卍屋の件です 』
  『 桑島に対する処置を使えないか 』
  『 御金御用商としての卍屋は 、三井の
  筋を引いているばかりでなく 、堂島か
  らも資金が入っております 』と主水正
  は云った 、『 単にそれだけではあり
  ません 、五人衆の制度にも多くの欠点
  があり 、不当な利益をぬすまれたよう
  です 、けれども五人衆の利得はこの領
  内に蓄積され 、いずれかのかたちで御
  領分を潤し 、役に立ってまいりました 、
  それが卍屋の場合には反対に 、取得し
  た利益は殆んど上方へ持ってゆかれて
  しまう 、そしてかれらは通貨の移動を
  糊塗するため 、銭札の増発という手を
  使っています 、したがって桑島に対す
  る処置と同一では 、藩の財政は取返し
  のつかぬことになると思われるのです
  が 』
   主殿の唇に微笑がうかんだ 、『 ここ
  で詳しい詮索をしてもしようがない 、
  だがそこまで調べがゆき届いているなら 、
  迷うことはないだろう 』
  『 天明四年 、幕府でとられた非常法が 、
  この場合もっとも適していると存じます 』
  『 簡単ではないぞ 』主殿は頷いて云った 、
  『 できると思うか 』
  『 迷うことはない 、と仰るのをいまうかが
  いました 』
  『 おまえの口ぶりで 、覘(ねら)っている
  ことにほぼ見当がついたからだ 、天明の
  非常法はあとに多くの問題を残し  、非難
  も少なくはなかった 、おそらく卍屋どもも
  知っているだろうし 、その対策も考えてあ
  ると思うが 、その点はどうだ 』
  『 それには打つ手が用意してございます 』

   聞こう 、というように主殿が脇息を引寄
  せたとき 、家扶の岡野吾兵衛が 、蔽いを
  掛けた膳を持ってはいって来 、主殿の夜具
  の脇へ据えながら 、食事の時刻である 、
  と告げた 。主殿は眉をひそめ 、手を振り
  ながらあとだと云った 。岡野家扶は救いを
  求めるように 、主水正の眼をみつめた 。
  『 医師からきびしく云われているのです 』
  と岡野は主水正に云った 、『 食養生をき
  ちんとなさらなければ 、御恢復はおくれ
  るばかり 、いまはどんなに高貴な薬より
  も 』

  『 医者の一つ覚えだ 』主殿は遮って 、
  首を振りながら云った 、『 枯れかかって
  いる老木に 、濃い根肥(ねごえ)をやれば
  どうなると思う 、老木にはその根肥を吸
  いあげる力はない 、余った養分には虫が
  付くか 、木そのものを腐らせるか 、いず
  れにせよ逆に 、老木の枯れるのを早める
  ばかりだ

   これは木には限らない 、生命あるもの
  すべてに通ずる原則だと思う 。ちかごろ
  新らしがる医者の一部に 、老人ほど食事
  に厚味の物をとるがよい 、それが躯(から
  だ)を若わかしく保つ法だ 、などと云う者
  がある 。しかし老躰(ろうたい)は老躰で
  あることが自然であり 、厚味の食をとる
  ことによって若わかしさを保つとすれば 、
  それは反自然であり 、老躰に鞭打つ結果
  になる 。そこまで云って 、主殿は右手を
  大きく左右に振った 。
  『 ばかばかしい 、どうしてこんな話にな
  ったのだ 』と云って主殿は老家扶に振り
  向いた 、『 いま大切な話をしているんだ 、
  これは持ってさがれ 』
   主水正はとりなそうとしたが 、思い止(と
  ど)まり 、岡野家扶は落胆したように 、両
  肩をゆりあげたのち膳を持って去った 。

  『 気にするな 』と主殿が云った 、『 いい
  からあとを聞こう 』
   それから半刻あまリ 、主水正の云うことを
  主殿はよく聞き 、熱心に意見を述べた 。も
  う自分の時代は去った 、という言葉や 、長
  い病臥生活にもかかわらず 、主殿は藩の情
  勢もよく知っていたし 、問題に対する判断
  も正確であり 、立派な見識のあるものであ
  った 。―― この人は少しも条件に左右され
  てはいない 。六条一味によって城代を免ぜ
  られたが 、城代家老としての人間を変える
  ことはできなかった 。もちろん異例ではな
  いだろうが 、七十歳を越した年齢と 、いま
  置かれている立場から考えると 、やはり舌
  を巻かずにはいられなかった 。

  『 あの人はいまでも現役の城代家老だ 』滝
  沢邸を辞して出ながら 、主水正は太息(とい
  き)をつきながら呟いた 、『 ―― 枯れかけ
  た老木に根肥を入れるな 、老いることを自
  然に受入れるが 、それは肉躰のことで 、
  精神的には無関係なのだ 、それをあの人は
  現実に見せてくれたのだ 』 」

  引用おわり 。

 ( ´_ゝ`)  フー  。^ ^ 。

 ( ついでながらの

  筆者註: 勤め人 辞めて 二十年にもなるのに 、未だ

      に他人(ひと)さまの書いたものに対するチ

      ック癖が止みません 、当人がしょっちゅう

      書き間違え 、読み間違いもする癖して 、

      読書中の電子書籍の中に 、そんな間違い箇

      所を発見して 、たくんの専門のひとたち

      の眼が行き届かないこともあるのだとびっく

      りです 。版を重ねた古典的な時代小説でも 、

      おそらくは電子化にあたって 、こういうこ

      とが起こりうるのです 、馴れはこわい 。

       件( くだん )の文章は 、次の通りで 、通読

      してみれば意味が通らないので 、どこかの

      だれかが 、おかしいと気づく筈なのに 。

      「『 おそくなりました 』 はいって来た二人の
       男の人が辞儀をして云った 、『 安西さまの
       字があまり御達筆なものですから 、阿部重(あ
       べじゅう)といってたずね廻(まわ)ったんです 、
       そのうちに阿部重(あべじゅう)ではないかと云
       われて 、ようやく辿(たど)り着いたわけです 。』
       『 まあ寄れ 』波岡五郎太夫が 、設けてある席
       を手で示した 、『 鳥越で重の付く料理茶屋は
       ほかにはない 、それでよく役目が勤まるな 』
       『 まあお手柔らかに 』安西左京が二人を席に
       つかせながら 、とりなすように云った 、『 か
       れらはこういうところには馴染が(なじみ)がな
       いのです 、さあ女ども 、二人に酌をしてやれ 』  」

       この文章は 、重のつく料理茶屋「 阿波重にて 」と

      いう小見出しのついた 章 の頭にあります 。二つあ

      る「 阿部重 」二番目は 、「 阿部重(あべじゅう) 」

      でなく「 阿波重(あわじゅう) 」でないと意味が通り

      ません 。版元にこの間違いに気づくチェッカーがい

      なかったんでしょうね 、きっと 。物語の本筋でない

      箇所だけに 校閲馴れした みんなが 見落としたんでし

      ょう 。行間 、文脈を読まない AI にチェックさせて

      も間違うかもね 。)

 

  

 

 

コメント
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