「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

ながい坂 Long Good-bye 2024・04・24

2024-04-24 05:43:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、年初からじっくり

 読み進めてきた本の中から 、 備忘のため 、抜き

 書きした 文章 。

  五十年ぶりに山本周五郎著「 ながい坂 」を読み

 了えた いま 、これまでの七十五年余りの人生で 、

 この小説の中に書かれた多くのことに 、折々

 案内されながら 生きてきたような思いがしていま

 す 。ところどころで 、主人公の良い子ぶりに

 易するところがないではありませんが 、それを

 揶揄する人物を対話相手に配することで 、修身

 の教科書になることを回避して 、リアリティ

 る文学作品に仕上がっているように思います 。

  おしまいのほうにある 、この本の題名の由来とな

 ったくだりも 抜き書き しました 。

  引用はじめ 。

  「  大五はにやっと笑って仮綴(かりとじ)の帳面を
  二冊 、そこへ差出した 、『 この天と題したほ
  うがこっちの側の人名 、地と題してあるのが波
  岡一味の名簿です 』
  『 早かったな 』主水正は二冊を手に取った 。  」

  「  ・・・ 『 五人衆の報告もほぼ揃ったし 、こ
  の二冊に誤りがなければ 、もう打つ手の計画を
  たてなければならない 、―― 大五さんならわか
  るだろう 、こういう計画の 、表面的な部分には
  難点はない 、大切なのは細部だ 』
  『 重箱の隅(すみ)ですか 』
  『 楊子(ようじ)で摘発するようにではなく 、ど
  う無事に押えておくか 、ということだ 』
  『 一味のほうへ寝返った連中はわかっているん
  ですよ 』と大五が云った 、『 尤も 、殆んど
  は利益でつながっているんですが 、中にはいま
  の位地を足がかりに出世をしようと 、しんけん
  に考えている者も少なくはない 、これらを押え
  ておく 、などというなまぬるいことでは承知し
  ないと思いますがね 』
  『 ではどうしたらいい 』
  『 ひと纏(まと)めにして押しこめるんですね 』
  『 かれらが抵抗しないと思うか 』
  『 むろん 、一騒ぎやニた騒ぎは避けられない
  でしょうな 』
  『 だめだ 、断じて騒ぎにしてはいけない 、手
  を付けるのは六条一味に限ると 、江戸の殿にも
  その点をよく申送ってある 、家中で一味のほう
  へ寝返った者たちは 、大五の云うとおり藩家の
  大事よりも 、おのれの個人的な欲によってつな
  がっている 、そうだとすれば 、その足場が崩
  壊した場合 、それを挽回しようとするよりも 、
  まず身の安全を考えて 、おそらく大部分の者が
  こちらへ寝返るか 、いまの自分の席からはなれ
  るに違いない 』
  『 あなたは楽天家だな 』大五は湯呑の酒を飲
  み 、横坐りに腰掛けた毛だらけの脛を 、さも
  愉快そうにゆらゆらとゆすった 、『 外聞に構
  わず利にはしるような人間を 、あまく見てはい
  けません 、侍の本分とか名聞(みょうもん)で動
  く人間より 、自分の欲のために動くやつのほう
  が執念ぶかいし 、一度にぎった綱を奪われまい
  とすると 、どんな恥知らずなことでもやっての
  ける連中ですよ 』
  『 仮にそうであっても 、かれらが人間である
  ことに変りはないだろう 』
  『 まさか性善説なんぞをもちだすわけじゃない
  でしょうね 』
   主水正は大きく一と呼吸した 、『 性格と境遇
  によって 、人の進退はそれぞれに違う 、世の
  中には先天的な犯罪者か狂人でない限り 、善人
  と悪人の区別はない 、人間は誰でも 、善と悪 、
  汚濁と潔癖を同時にもっているものだ 、大義名
  分をふりかざす者より 、恥知らずなほど私利私
  欲にはしる者のほうに 、おれは人間のもっとも
  人間らしさがあるとさえ思う 、いや 、もう一と
  言 』主水正は片手をあげて 、大五を制止しなが
  ら云った 、『 ―― こんどの御新政改廃は 、陰
  謀でもなし転覆でもない 、まったく新しい出発
  なのだ 、巳(み)の年や亥(い)の年の例などを考
  えてはいけない 、ああいう騒動とはまったく関
  係のない 、当面の事実だけを処理することだ 、
  これだけはここではっきり云っておく 、去年の
  花は今年の花ではない 、それは忘れないでくれ 』
  『 昨日の雨も今日の雨ではない 』大五はにっと
  微笑した 、『 三浦さんにしては珍しく 、風流
  なことを仰いますね 、いいでしょう 、あなた
  が大将だ 、山からおりて来られるのを待ってい
  ますよ 』
  『 大五なら心配ないと思うが 』と主水正も微笑
  を返しながら云った 、『 おれが戻るまで 、あ
  んまりいさましく動かないように頼むよ 』  」

  ( ´_ゝ`)

  「  城の大手門をはいって 、枡形(ますがた)を ( このお城の名は「鵬(おおとり)城」 )
  左右に曲ってゆくうち 、幾人かの侍が主水正
  に丁寧な挨拶をした 。明らかに城代家老に対
  する挨拶のしかたで 、彼はそれらにこたえな
  がら 、しだいに胸苦しさと 、全身に重圧の
  かかってくるのを感じた 。
  『 たいしたことはない 』主水正は声に出し
  て呟(つぶや)きながら 、思わず呻(うめ)き 、
  頭を振った 、『 たかが七万八千石の城代家
  老ではないか 、しかも自分で選んだ道だ 、
  自分で選んだ道がここへ続いていただけでは
  ないか 』
   石を運び 、土を掘る人足(にんそく)たちと ( 「人足」はポリコレに反するらしい )
  少しも違いはない 。一文菓子を売り 、馬子 、
  駕籠(かご)かきをしても 、人間が生きてゆく
  には 、それぞれの苦しみやよろこびがある 。
  そのありかたはいちようではないし 、どっち
  が重くどっちが軽いという差別も評価もでき
  ない 。城代家老という役が特に重大であり 、
  苦しいものであることはない 、と主水正は
  思った 。
   最後の枡形を曲ると 、道は二つに別れる 。
  左へゆけば本丸 、右へゆけば二の丸 、飛騨
  守昌治は二の丸御殿にいる筈であった 。主水
  正が二の丸のほうへ曲ったとき 、その道が緩
  い勾配の坂になっているのに気づいた 。
  『 ここは坂だったのか 』彼は立停(たちどま)
  って 、道の上下を眺めながら 、びっくりした
  ように呟いた 、『 ―― 知らなかった 、まる
  で気がつかなかった 、これまで幾十度(たび)
  となくここを通ったのに 、ここが緩い勾配な
  がら坂になっていたことに 、まったく気がつ
  かなかった 』
   主水正は土堤(どて)になっている左右を見や
  った 。刈り込んだ若草と松林 、薄曇った空か
  ら 、初夏のやわらかい日光が 、あたりにあた
  たかく満ちあふれていた 。正面には二の丸御
  殿の大屋根が 、松林の上にぬきんでて見える 。
  本丸のほうで馬の嘶(いなな)く声がするのは 、
  誰かが昌治の乗馬の調練をしているのであろう 。
  『 ここが坂であったことに初めて気づいたよ
  うに 』と彼はまた呟いた 、これまでどれほど
  多く 、人や大事なものごとに気づかず 、みす
  ごしてきたかもしれないし 、これからも気づ
  かずに聞きのがしたり 、見のがしたりするこ
  とがいかに多いかもわからない
   主水正は引きずるような足どりであるきだし
  た 。城代家老は馬子でもなし 、一文菓子屋で
  もない 。人足や駕籠かき 、百姓 、町人の心
  配や苦労をも背負わなければならないのだ 。
  堰堤(えんてい)工事や 、御用商制度や運上(う
  んじょう) 、年貢の合理化など 、多くの仕事が
  待っている 。しかも 、どんなにそれらを合理
  的に処理しても 、そのまま十年とは続かない
  だろう 。時勢の変化にしたがって 、そのたび
  ごとに修正してゆかねばなるまい
  『 おれは少年のころから 、脇見(わきみ)をす
  る暇さえなく 、けんめいにながい坂を登って
  きた 』とあるきながら彼は呟いた 、『 多く
  の困難や 、むずかしい仕事や 、いのちを覘
  (ねら)われたことさえある 、三十八の今日ま
  で生きてくることができたのは 、幸運という
  べきだろう 』
   しかし 、今日までは自分の坂を登ってきた
  のだ 、と彼は思った 。
  『 そして登りつめたいま 、おれの前にはも
  っと嶮(けわ)しく 、さらにながい坂がのしか
  かっている 』と主水正はまた呟いた 、
  『 ―― そしておれは 、死ぬまで 、その坂
  を登り続けなければならないだろう 』  」

  引用おわり 。

 

  

  

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする