私にとって、お麩と言ったら、お吸い物やお味噌汁に入っている小さなお麩で、
ずっと「副菜」のイメージでした。
それが、マクロビオティックをやっていた頃、
(いえ、当時は「マクロビ」などという言葉はなく「玄米菜食」と言っていました。)
玄米菜食のレシピの中に、車麩のフライが紹介されており、
「これは、食べ応えがあって、おいしそう!!」と、すぐに作ってみたくなりました。
しかし、車麩を地元で見かけることはありませんでした。
今回、新潟県三条市のマルヨネさんの車麩を送っていただき、
初めて、三条市の車麩が日本一のシェアを占めていることを知りました。
なぜ、新潟県で車麩が作られ、伝統食材として食べ続けられているのか?
どうしてもその理由が知りたくなり、調べてみました。
まず、お麩の歴史からひも解いていきます。
■お麩の伝来と小麦の栽培
●室町時代に中国と貿易を開始した際に、お麩を持ち帰ったのが始まり
当時の日本は米作中心で、お麩の原料である小麦は栽培されていなかった。
お麩は中国との貿易で流通するだけで、特別な日にしか食べることができなかった。
●江戸時代、小麦の栽培ができるようになる。
ヨーロッパや中国から栽培法が伝わったことで、全国に栽培が広まる。
しかし、この時代、作られていたお麩は生麩が主流だった。
ここで、新潟の地形と自然環境を見てみましょう。
■新潟の地形と気候と農業の関係
●長野県の山から質の良い水が流れてくる。
↓
米作が盛ん
小麦も貴重な食材として栽培が始まり、高品質の小麦粉が作られる。
●新潟には高い山がない。
冬場、北極から発生した冷たい空気が直接覆うことになるため、豪雪地帯である。
↓
流通ルートやハウス栽培が確立されていない時代は、農作物の栽培ができない。
↓
秋のうちに収穫した肉、魚、野菜はすべて燻製や塩漬けにして
保存性を高める工夫をしてきた。
■新潟でお麩作りが始まる
冬の保存食とは言っても、野菜に比べると、肉や魚の収量は限られている。
↓
たんぱく源を確保しなくては!!
↓
中国から伝わったお麩の製法をもとに、地元産の小麦粉を使ってお麩を作ることに。
長期保存のために「焼く」という工程を入れ、車麩が誕生する。
※現在のマルヨネさんでの、車麩の製造工程はこちら
過酷な冬を乗り切るため、地元産の小麦粉を使って、副菜ではなく、
肉や魚に代わる主なたんぱく源として、主菜のポジションを確立してきた車麩。
あの形と調理した時の存在感は、
先人たちの思いと知恵が築き上げたものだということが伝わってきます。
まだまだ掘り下げ方が浅いかもしれませんが、
新潟の食文化に触れる良い機会をいただきました。
ありがとうございました。