耳塚(鼻塚) 京都市東山区、豊国神社門前
先日 京都国立博物館に『シルクロード 文字を辿って』に行く。
私たちはその後嵐山へと向かったのだが、せっかくの東山区の博物館界隈なのでぶらりと歩くことにした。
京都国立博物館近くには『三十三間堂』や『方広寺』や『豊国神社』や『耳塚』などもある。
『三十三間堂』は去年楽しんだので、今回は『方広寺』や『豊国神社』や『耳塚』などによることにした。
まずは耳塚。印象深かった
夫が、
「豊臣秀吉が朝鮮・明国兵の方の耳をそいで持ち帰ったんだ。」
と、説明。
「うんうん、知ってる。」
と、私。
私が耳塚を集中して観ていると,
「ちょっと!きてみて。いいものを見つけた!!」
と家族の跳ねるような明るい声。
そこには中村雁次郎や片岡仁左衛門や松本幸四郎や梅幸や宗十郎や秀調や羽左衛門や扇雀や玉三郎や猿之助などの名前が彫られた 耳塚のぐるりを取り巻く石柵。
Wikipediaには『石柵は大正4年5月に歌舞伎役者をはじめとする当時の著名芸人達の寄付によって建立された物』とある。
こんな所で好きな歌舞伎役者の名が見られるなんて、しあわせぇ~~~。
わたしたち二人は歌舞伎役者の名が彫られたそれを見るため、かがみながらるりを取り巻く石柵を順を追ってみて行く。
近くには休憩中のタクシーが一台 とまっている。
運転手には摩訶不思議な行動の二人をちらりと見ては見ないふりをする。
多分阿呆夫婦に見えたのだろう。
客観的に考えると、やはり!へん。
上の写真は右から 片岡仁左衛門と松本幸四郎と尾上梅幸。
もちろん現代の役者さんではないはずであるが、何台目とは書かれてない。
松本幸四郎においては東京松本幸四郎と記されていた。
こちらには宗十郎の名も。やったね。
秀調、羽左衛門、猿之助の名も。すごいな!
またまた片岡仁左衛門と松本幸四郎と尾上梅幸。。ここの部分、興奮気味で見ていた。嬉しいな。
大坂扇雀。おおさかのさかは坂になっている。先代の雁次郎さんかな?。後ろ姿を思い出すな。かっこいい。
玉三郎の名も。こことなしか石から後光が射しているような錯覚に陥る。
猿之助。
ところでこの耳塚ですが、Wikipediaによると初めは鼻塚といったそうです。
野蛮なので耳塚という名に落ち着いたらしいのです。
また『一時、在日韓国朝鮮人からの非難で観光地より外された。』とも書かれています。
私は耳塚に対しての事実を厳粛に受け止めたいと思います。
在日韓国朝鮮人の方をないがしろにしてこのブログに記録していると森はありません。
事実は事実として日本人も反省し、受け止める必要があると私は考えます。
もし、この記録を見て不快に感じられた方がいらっしゃいましたら、ご意見を頂戴したいと思います。
その折はまた、良い方法を考えたいと思います。
ただただ、私はほんの少しばかり芝居好きの阿呆でございます。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より『耳塚』について、転載させていただきました。 ▼
京都市東山区、豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592年~1598年)時、討ち取った朝鮮・明国兵の耳や鼻をはなそぎし持ち帰ったものを葬った塚。古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている。昭和44年(1968年)4月12日、「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定された。当初は「鼻塚」と呼ばれていた。しかし林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼称が広まったようである。
この塚は慶長2年(1597年)に築造され、同年9月28日に施餓鬼供養が行われた。この施餓鬼供養は秀吉の意向に添って相国寺住持西笑承兌が行った物で、京都五山の僧を集め盛大に行われたようである。
周囲の石柵は大正4年5月に歌舞伎役者をはじめとする当時の著名芸人達の寄付によって建立された物で、発起人は京都の侠客「伏見の勇山」と伝わる。なお塚前の焼香台・石段も彼の発起によって築造されたものである。
当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首(漢語では頭のこと)をとって検分したが、一揆(兵農分離前の農民軍)や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証した。これをしないのを打捨という。また、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされる。検分が終われれば、戦没者として供養しその霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であり、丁重に供養された。
一時、在日韓国朝鮮人からの非難で観光地より外された。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
耳塚(みみづか)は、文禄・慶長の役の朝鮮、明兵の戦死者の耳、鼻を弔った塚である墓。
目次 [非表示]
1 京都市の耳塚
2 福岡市香椎の耳塚
3 その他の耳塚
4 外部リンク
京都市の耳塚 [編集]