方広寺
京都国立博物館威嚇の方広寺に行ってきました。
この辺りには豊臣秀吉ゆかりの『耳塚』『豊国神社』『方広寺』があります。
先日は『耳塚』『豊国神社』を載せましたが、今回は『方広寺』を記録したいと思います。
ここ『方広寺』の境内には『大仏殿』がありましたが、豊臣家滅亡後、徳川家康によって破壊されました。
現在残っているのは大仏殿の石垣と豊臣家滅亡となったきっかけの鐘楼『国家安康の鐘』の二つです。
鐘は秀吉の子の秀頼によって鋳造されました。
『国家安康』『君臣豊楽』の銘文が刻まれています。
『国家安康』(こっかあんこう)『君臣豊楽 子孫殷昌』(くんしんほうらく しそんいんしょう)と言う文句が刻まれていたのです。
秀吉の死後、豊臣家滅亡の機会をうかがっていた徳川家康に側近が『国家安康』『君臣豊楽』に対し、
『国家安康』 →家康の”家”と”康”を切り離している。
これは、家康の頭と胴を切り離す
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『国【家】安【康】』 → 家康家の分裂祈願
『君臣【豊】楽』 → 『君臣豊楽 子孫殷昌』と豊臣家の反映を願っている
など、豊臣家は徳川家の滅亡を願っていると、入れ智恵しました。
これによって豊臣家に対して大坂の陣のきっかけとなったという有名な鐘だそうです。
方広寺の方が、鐘のようすや歴史の流れを教えて下さいました。
私たちが行った時には修学旅行の高校生が何人か熱心に鐘を見ていました。
鐘の内側には淀君の幽霊の恨みがにじみ出たといわれている白いお姿が認められました。
方広寺の方は長い某を指して 『国家安康』『君臣豊楽』の銘文や淀君の幽霊を得意になって話して下さいました。
小学館 『日本歴史観』参考
京都東山 方広寺にて