そのままVon

おもに31文字の語呂合わせ日記

ゲーテの詩とモーツァルト

2006年08月27日 | 字余り
8/27
毎日モーツァルトでリュートの紹介があった。ゲーテの詩『すみれ』にモーツァルトが曲を付けてくれたというのでモーツァルト・ファンのゲーテは喜んだというのである。しかし、モーツァルトはゲーテの詩にモーツァルト独自の一行を付け加えた。すみれは、乙女に摘んでもらい綺麗だと褒めてもらいたかった。だのに、モーツァルトは羊飼いにグシャッと踏ん付けさせてしまった、というのである。モーツァルトに関しては淀川長治的に話す小塩節タカシさんがモーツァルトのいたずらに感心して案内していた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徒然草(#173 小野小町)

2006年08月26日 |  / 徒然草
8/26
「謎である小野小町の事蹟には時代が合わぬことのありしか()」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大化の改新

2006年08月26日 | 字余り
8/26
中大兄皇子は田村皇子(後の舒明天皇)と宝皇女(後の皇極天皇)を父母にしている。宝皇女は恋人だか旦那だかがいたが、別れて田村と一緒になった。この田村皇子は他でもない蘇我入鹿に滅ぼされた山背大兄皇子(聖徳太子の子)に代わり天皇位に就いた舒明天皇である。馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我三代は入鹿の代になり滅びの道を歩み始めたと言えないだろうか。爛熟を極めるがもはや主流ではなく、地下でなにかが動きつつあった。上宮家の怨念のようでもあり単なる歴史の必然のようでもある。上宮家滅亡の後、舒明期は蘇我氏の傀儡のようになっていたのだろう。継者がいたのかいなかったのかわからないが、舒明が死んだ後を皇后が引継ぎ、皇極として即位する。皇極は公私とも入鹿と密になりながら、中臣鎌足・中大兄による乙巳の変を向かえる。変の後、軽皇子、斉明(重祚)と変遷するが、ここには何十年も前からの壮大なプランがあったようなきがする。もちろん後の藤原家の始祖やその周辺によるのだが、これをいうには論証がいる。あくまでも仮説だが、蘇我氏を滅亡させそれに代わるためのグランドプランを立てて着実に実行していた人が、かなり早い時期にいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古事記と日本書紀

2006年08月25日 | 字余り
8/25
古事記には太安麻呂が書いた序文があり、稗田阿礼という語り部とコンビになって語ったところを書き取っていったというのである。確かに古事記は日本書紀よりもより日本語の祖型に近く一音一音を漢字に対応させているらしい。日本書紀の方は漢文のような構造になっており、中国の歴史書を意識した造りになっているらしい。古事記は上中下三巻だが、日本書紀は三十巻に及ぶ。森博達氏(中公新書)によれば、何人かで共同出筆された日本書紀は漢字の使い方の違いで中国人、日本人が著した巻が特定できるとし、出筆順序迄特定している。氏のその後の著作を待っているのだが、なかなか出てこない。古事記成立と日本書紀成立に八年の差があり、諸説紛々するので統一見解をということで始めた古事記編纂だったが、ちょっと欲が出たのか、対中国、対朝鮮へのエヘン虫が頭をもたげたのか、三十巻も書いてしまったのである。エヘン虫でなければどんな真意が?!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋の気配

2006年08月24日 | 日めくり帖
8/24
「真葛葉のうらにかくれてすむ秋をけさ吹きかへしみする初風
(木下長嘯子)」
「長嘯子チョウショウシいくさに敗れ隠遁す禰々ネネの甥っ子いかなる人ぞ
(秀吉の妻、北政所ネネの甥だがあまり知られていない)」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする