昨日の記事の続き。
屋良グスクの裏。
(ちなみに公園の遊具と案内板があるところを【表)としています)
裏に回ると、風景はガラリとその趣を変えて、
まるで森の中の散歩道のような空間になります。
隣には、比謝川。
(トップ写真)
ではここで、もうヒトツの百十踏揚行脚。
■屋良グスク【裏】■
屋良グスクは、比謝大川の南のほとりにあって、
当時は屋良大川城と呼ばれていた。
川に面した北側は険しい断崖になっていた。
阿麻和利が小さいときに捨てられた漏池(ムルチ)は、
この屋良城の崖を越えた、比謝大川の中流あたりである。
屋良按司は、大読谷山按司となった又従兄弟の護佐丸を歓迎し、
護佐丸はその夜、屋良城に泊まった。
「百十踏揚 262-」(与並岳生著/新星出版)
はい、その屋良按司のお墓がコチラ!
ちなみに屋良グスクに屋良按司のお墓は2つあって、
この写真は「先」大川(屋良)按司の墓。
「後」大川按司(とその一族)の墓は最近リニューアルされたのか、
とてもぴかぴかの真っ白なお墓でした。
さあ、その屋良按司ですが。
実は、屋良按司は阿麻和利の父ちゃん
だという伝承があったりもします。
(この説、結構有名ですがブログで書くのは初めてですね)
阿麻和利は屋良村生まれの孤児となっていますが、
実は父親は屋良按司だった、と。
でも生まれつき体が弱かった故に棄てられたが
後に勝連按司として大出世するわけですから、
やっぱり按司の血が流れていたんだ…というような。
また、別にはしっかりと屋良で育って勝連へ移り住んだ、という説も。
確か阿麻和利を祀った家が嘉手納にあったと思いますが、
それは『沖縄戦国時代の謎(比嘉朝進著)』によると、
屋良按司の奥さん(または側室)として阿麻和利を生んだとされる
林堂家関係者(門中)ということになるらしいです。
個人的には普通に阿麻和利は百姓の子で棄てられて…、
という説を取りたいですケドね。
(「百十踏揚」の説が1番ドラマ性はあるとは思うけど☆全くありえない話じゃないから面白い)
阿麻和利の子の有無とかも色々説もあって、
一応、「阿麻和利には子なし」が通説だと思いますが…
でも「阿麻和利の子孫」を名乗る人は、
実は見たこと、聞いたこともあったりするので…
やっぱり色々と謎の多い阿麻和利なのです。
この時代、謎が多いから、面白いんだよな~。
そんな伝承や歴史を知ると、また一段と楽しめる屋良グスクなのでした。
ひと気は少ない(っていうかほぼない?)ですが、
歩道は↑の通り石畳で整備されているので
晴れた日なんかは屋良グスク【裏】を散策してみるのもいいかもしれませんよ♪
(ぐる~っと周ると結構な広さです。ウォーキングコース並?)
隣を流れる比謝川のせせらぎも実に爽やかです。
ちなみに屋良漏池についての過去記事はコチラからどうぞ。
「百十踏揚行脚~屋良ムルチ~」
同じ比謝川でもガラリと雰囲気違いますよ。
こっちの比謝川(河口)もね☆
アンダーのWB蛍光灯で撮影。
トップ写真と似てるけど、もう1枚掲載。
ちなみにトップ写真と同じアングルの、
ハイキーバージョンはコチラ。
歴史ブログ 琉球・沖縄史
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