今帰仁(なきじん)に「赤墓」という史跡墓があります。
この赤墓、言い伝えによると金丸の弟の墓だというのです。
金丸の弟、と言えば尚宣威(しょう せんい)。
尚宣威は金丸(尚円)の死んだ後、王位をつぎますが
金丸の妻であるオギヤカの策略によって半年で退位に追い込まれた、あの弟。
でもこの赤墓は、尚宣威の墓ではありません。
(尚宣威のお墓→★)
では、「今帰仁グスクを学ぶ会会誌 今帰仁上り(2010)」
「門中拝所巡りの手引き(1986)」を参考に
この赤墓にまつわる話をご紹介。
赤墓は本部町具志堅の上間家の子孫・上間大親を葬った墓である。
彼は尚円(金丸)の弟であり。
壮年のころ、伊是名島から今帰仁に移り住んだ。
ある日、尚真王(※金丸の息子)が国頭地方を船で行幸した際
暴風に遭った。
これを見た上間大親は二人の息子たちと小舟を出して
我が身の危険も顧みずに助けに行き、王の船を岸に入れた。
その行いにいたく感心した尚真王が素性を尋ねると、
金丸の弟だということが分かった。
尚真は恩人が自分の叔父であることに驚き、また感激し、
上間村(本部町具志堅)と地頭職を与え、後に墓も与えた。
また、なぜ「赤墓」と呼ばれているのかというと、
石棺が赤く塗られていることから、らしいです。
(赤は高貴な色ですからね)
また、遺言により故郷である伊是名島がよく見えるところに
墓を設置したとも。
赤墓から振り返るとこう。
よく晴れた日は伊是名が見えるようです。
この上間大親のエピソードは王府の正史「球陽」の尚円のページにも掲載されています。
しかし金丸の弟とか赤墓という記述はナッシング。
でも尚真ではなく尚円のページに掲載されているということは
やっぱり金丸にゆかりある人、ということでしょうか。
金丸の弟が、尚宣威の他にもいた。
さてさて、これってどういうこと…!?
ちなみに金丸の両親は尚宣威が5歳の時に死んでます(BY球陽)。
……金丸の従兄とか言うなら分かるけどなー。
本当に弟かどうか、金丸・尚宣威・尚真などの年齢から推定推理してみると……
…また長くなりそうなので止めときますか
「赤墓」の案内表示が浜に落ちていました。
台風で飛んだのか…?
トホホ
こっちにも。