鬼大城こと、大城賢雄の最期は
実はハッキリしていないようです。
一応現在有力なのが、
第二尚氏(金丸派)によるクーデターの際に‘新王府軍’に討伐された、というもの。
その時、
諸按司を集めて北谷間切に国直(くになおし)グスクを築いたとも。
賢雄の旧王朝(第一尚氏)への篤い忠誠心が垣間見える
武将らしいエピソードです。
でも、実は賢雄の最期については「夏姓太宗由来記」や「球陽」などの正史には
阿麻和利を討伐し、褒美をもらい越来按司になった、という所まではあるものの
その後の記述は一切ない。
というわけで、諸説ある賢雄の最期についてご紹介。
【1】
反尚円の按司を集め新王朝に立ち向かい殺された。
(コザ市史、辺土名朝雄)
現在一般的な説ね。
【2】
なんらかの不都合で、尚泰久の兵に消された
(伊波普猷、山里永吉)
でた!黒幕尚泰久!
【3】
越来按司が賢雄の不品行を国王に訴え破滅を早めた
(伝承)
ふ、不品行…!?何した賢雄!!
【4】
美女狩りをおこない知花の村民に追われて殺された
(口碑)
美女狩り!?Σ(゜д゜;)
…嗚呼、賢雄……
賢雄はなかなかの女好きだったとか、淫乱の人だった、
とかいう口碑もあるようで(BY「阿麻和利考」伊波普猷)
そこからつながる「最期」の説なのでしょうか…。
賢雄と百十踏揚がラブラブだったかどうかも
さて、どうなのでしょう。
どれを信じるかはみなさんそれぞれで!
ワタシは是非とも【1】か【2】で!!
(切望)
とりあえず、“逆賊阿麻和利”を討伐した英雄のはずが
阿麻和利討伐以降の記録がないことや、
賢雄から数代は日の目を見ていないということは
賢雄の最期に何か秘密が隠されているような気はしますね。
護佐丸・阿麻和利・大城賢雄、
やっぱりこの3名は面白い。
参/「真説 阿麻和利考 歴史と伝承を探る」(高宮城宏著/2000)