昨日UPした記事「鬼大城、最期の謎」に書いた、説【3】の
越来按司が賢雄の不品行を国王に訴え破滅を早めた
という説の補足。
この説に出てくる越来按司について。
阿麻和利討伐の際、
賢雄率いる王軍はいったん越来グスクに駐屯したらしいです。
その際越来按司も勝連討伐への王府軍に加わるよう言われますが、
なんと、妻の懐妊を理由に参戦を断った
というツワモノ(笑)
…え、その理由アリ…?
…まぁ、今の感覚からいえばなかなかの愛妻家ですが。
で、この越来按司。
おそらく阿麻和利を討伐したあと越来親方(※城主=按司)に出世した賢雄に
結果、追い出されたという形になったのでしょうか。
なるほど、それなら賢雄に恨みも芽生えたことでしょう。
王女・百十踏揚とも結婚を果たし、
どんどんと力を増していく賢雄をねたみ、
何とかして陥れてやろうと機会を狙っていたとのこと。
で、賢雄が宮里村石城家の娘を妾にしたのをとらえて
これを不品行だと尚円王に大げさに訴えた。
王はこれを聞いて懲罰の大軍を差し向けた、とのこと。
…色々とツッコミどころ満載の口碑ですね(^^;
とまぁ、賢雄の最期については諸説あるのですが、
でも「知花グスクで火攻めにあった」という点では共通しているようですよ。
なお、今日の記事は
「沖縄史文化財調査報告書第2集 鬼大城の墓」
(沖縄市教育委員会/1980))
を参考にしていますが、
同資料から、諸説ある賢雄の最期についてのまとめをついでにご紹介。
口碑伝説はさておいて、第一尚氏の功臣であり姻戚である賢雄が
第二尚氏の軍隊から攻められるのは不可避である。
また、第一尚氏の時代から既に進展しつつあったと思われる社会情勢への変化
(地方按司たちによる土地の割拠的領有制から首里王府への一円的領有制へ)
をすくいあげ、意図的に自らへの土地と人民の集中を制度化しようとする第二尚氏の根本方針に、
古い型の地方士豪である賢雄が相反する存在であった。
そういう第二尚氏の基本方針が根本にあって賢雄が殺されたと見たい。
うん。
表面的な理由や討伐のきっかけはどうあれ
根元にはこのようなもっと深いものがあっただろうね。
(金丸派のクーデターなんかもそうだろうし)
ちなみに賢雄の家系は4代にわたって平民に落とされたとも。
なるほど、だから門中事典とかで調べてみても
初期メンバーが載ってなかったのか…。
また、子孫は百十踏揚との子ども経由ということになっているそうです。
(そう言いきっているネタ元はやっぱり伊波普猷の阿麻和利考なのかなぁ…?)
尚泰久が越来グスクから首里に移って、
賢雄が越来按司になるまでの空白の数年間。
誰が越来按司だったんだろうね…。
記録はないのかな?