山里ひぐらしの小径

木曽路の入り口、岐阜県中津川市から
人と自然とのかかわりをテーマに、山里、植物、離島など。

キンモクセイも二度満開になる?

2009-10-23 | 植物
毎年花期がずれず、全国同時期に咲く花の代表は、ヒガンバナだけど、多分キンモクセイもそんな花です。
キンモクセイは毎年10月1日ごろ、きちんと咲いてくれます。
20年ぐらい前の私の観察では、キンモクセイの開花に気付くのは、毎年10月3日でした。
今年は9月末から咲いていました。

それが、今年、今また咲いているのです。
2日前に、なんかキンモクセイの香りがする・・・と思っていたら、少し離れたところに住む友人からも、それを伝えるメールが来て
そして今日、家の近所で満開に近い状態になっているのを発見。

でもこんなことは今年初めてです。


2006年8月8日に、ネムの花は二度満開になる、という記事を書きました。
これに気付いたのは私だけじゃないようなのですが、
今年のキンモクセイはどうなっているのでしょう。


心やさしく穏やかな人たちの街、パダン

2009-10-23 | 山里
9月末の西スマトラ大地震に見舞われたパダンがいかにいいところかは、2009年3月29日「南の島の赤鯛白鯛」の記事に少し書いた。

昨年12月、私はマレーシア経由でインドネシアに行った。
クアラルンプールから一番近いインドネシアの空港が、パダンだった。
マラッカ海峡を船で渡ってそこに入る、というのが理想だったけど、クアラルンプールから電車に乗り船の切符を買って乗り継ぐという慣れないルートを、旅の初めからやっていたら、いきなり疲れそうだったのであきらめ、飛行機で行ったのだった。

行き当たりばったりで、日本を出てからルートを考えているため、出発前はスマトラ島を経由することは予定になかった。なぜなら最終目的地はインドネシア東部のフローレス諸島だったので。
でも、考えた末、パダンからインドネシアを横断(縦断?)してバスでフローレスまで行ってしまおうかなどと計画したのだった。

空港からパダンの街までは確かバスで1時間半ぐらいかかった。
パダンの街にさしかかり、街を流れる道端の小川や、並木道を見たとき、わたしは自分でも全く予期しなかった深~い安らぎみたいなものが満ちてくるのを感じたのでした。
うまく説明できないが(説明するべきだが)、人が生きている実感みたいなものが、漂っていたのです。
バスの窓から見るだけなんだけど、ものすごい穏やかさがあるのです。

予備知識なく行ってみたら、意外に海に近いことがわかり、宿に荷物を下ろしてから海辺へと歩いていくと、海岸にそったいい道路にちいさい屋台(というより、ひさしのある台とでも言ったほうが適当な)が並び、そこでぴかぴかの魚を売っていました。
小さな舟がたくさん浜にあって、ぶらぶらしている人がいて、そこで写真をとったりし、モデルになってくれた人と片言で話したり(パダンの人はほとんど英語がしゃべれない)しているうちに、こっちでコーヒーを飲まないかと、浜の上の小屋に招かれました。

で、お言葉に甘えて、というか、そこはちょっとした茶店ふうだったので、まあたとえ商売だったとしてもお茶代ぐらいはたいしたことはないのだし、ミルクティーを飲んでいると、次第に人が増えてきて、それは今思うと私を見物に来た人なんだけど、7、8人になり、でも言葉が通じずに、スラマッソーレ(こんにちは)などとニタニタしながらあいまいに見つめあい言いあっているしかなかったのでした。
そこにいる人はほとんど若者だったけど、みんな漁師だということでした。
一人、ヒゲをはやした英語少ししゃべれるやさしげな警察官がいたけど(もちろんオフで)。

しばらくすると、若い女子が夫である彼氏とともに走ってやってきた。
その2人は、なんと日本語がぺらぺらでありました。
誰かが呼びに行ったのです。
日本で働いていたということで、なつかしがっていろいろ話をしてくれた。
インドネシアでは、地方に行くと、英語を話す人より日本語を話す人を探す方が早いことがよくあります。

2日前の記事の写真は、その小屋の中で撮ったものです。

結局、その茶店では、「いーよ、いーよ」とお茶代などとられず、
日本語を話す女子が「うちあなたの宿のほとんど隣デー「食堂」だから来てゴハン食べまセンカー?」というので行ったのでした。

で、行って、彼女の家の厨房を見せてもらったり、パダンの伝統的食事を食べさせてもらったり、日本の写真を見せてもらったり、従弟を紹介してもらったり、ギターで歌ったりとさんざん遊んで、
さすがに「めしや」さんでゴハンいただいたんだから、ここでは払わなくちゃ、と思ったけど、「いーよ、いーよ」といわれ、ご馳走になり、宿に帰ったのでした。

この日が、この旅行でのインドネシア初日だったのだけど、正直なところ、わたしには衝撃の一日だったのです。インドネシア観が変わってしまったのです。というより、それまでがゆがんでいたのでしょう。

それまでの経験では、どこに行っても、乗り物料金はふっかけられ(別に大した金額ではないのだけど、日本円にすると)、レストランでは先進諸国人が勘定をもつことを暗に期待され(まあそれも当然といえば当然で、どうということではないのだけど)、仲良くなったような気がしてた人からも、とにかく日本人やらツーリストは金のなる木というか、金をばらまく物体としてしか見られていないように感じ、心の中を「ヒュルル~~」とすきま風が吹いたりしてたのだけど、
パダンに来て初めて、インドネシア人と、人と人として対等に話をしたような気がして、心の中があったかーくなったのでした。

このパダンでの初日が、私のその後の1カ月を決めてくれたかのように、その後ジャワに行ってもスラウェシに行っても、ずっと現地の誰かの家に泊まったりご馳走になったりという、インドネシア人の厚意に触れる旅になったのでした。

パダンはそんな、忘れられない街です。
スマトラには名前忘れたけど湖のほとりの有名な避暑地があって、みんな、「どうしてそこへ行かないのか」と言っていた。
そのうち余裕ができたら、冬はそこで過ごしたいなーと夢見ていたのだけど。


浜辺の小屋の人たちにあげようと焼き増しした写真が、手元に残っています。

写真は、パダンの浜辺で、若い漁師。