私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昼下りのひととき、書棚の映画雑誌のコーナーから、一冊の本を取りだして、
読んだりした。
共同通信社の編集された『MOOK21 20世紀の映画監督名鑑』であり、
1999年11月1日に発行された本で、
映画好きだった私は、まもなく本屋で見かけて買い求めた雑誌であった。
もとより映画監督の作品を基軸とした洋画作品が羅列され、解説も的確に表現されていたので、
この後、幾たびか読んだりしてきた雑誌である。
たまたまが、ジョージ・スティーヴンス監督の欄を再読していた時、
『シェーン』を初めて映画館で観た時を思い馳せたりした。
この作品はジョージ・スティーヴンス監督の昭和28(1953)年に公開された作品であり、
私は後年の高校時代の昭和37(1961)年の頃、リバイバル興行として、映画館で初めて観たひとりである。
この作品が日本で初めて上映された昭和28(1953)年を過ぎた頃、
私は小学3年生の頃から、ひとりで映画館に行き、東映の時代劇などを観はじめていた。
この当時、私の住む地域から少し離れた大きな街の駅前の映画館に於いて、
ニュース、予告編、本編の合間、スクリーンの脇にあった煌(きらび)やかなカーテンが動き、そしてスクリーンは閉じられて、
華やかな銀幕となった情景となり、音楽が流れていた・・。
こうした中、雪村いづみの『遥かなる山の呼び声』、『青いカナリア』の唄声が流れ、
時代劇の本編に期待を膨らましながら、
少年なりに華やかな都会のお姉さんの唄声を聴いたりしていたのである・・。
そして唄声を聴いたりすると、東京郊外の映画館であったが、
こうした空間は都会の匂いを感じ、夢のようなひとときであった。
後年の高校生になった頃、『遥かなる山の呼び声』は映画『シェーン』の主題歌だった、
と遅ればせながら知ったのである。
その後、映画『シェーン』を真摯に観たのであるが、
主役のアラン・ラッドより、悪役としてのジャック・パランスに圧倒的に魅了されたりした。
この前後の時代は、映画館に於き、リバイバルを含め西部劇だけでも数多く上映されていた。
『駅馬車』、『荒野の決闘』、『真昼り決闘』、『大いなる西部』、
『OK牧場の決斗』、『リオ・ブラボー』、『アラモ』など満天の星空のように上映され、
私は高校の下校の時、日比谷とか新宿の映画館で観たりしていた。
私は確か3年前に、居間にある映画ビデオ棚から『シェーン』を観賞したのであるが、
45年ぶりだったので、懐かしげに鑑賞し、
あのようなシーン、セリフがあったのかしら、と微苦笑させられたのである。
もとより私の青春期からサラリーマンの時代、そして年金生活の現在まで月日が過ぎているので、
忘れ去ることも多いが、やはり名作のひとつは、この齢になっても、
教示させられることがある。
そして、あの昭和28(1953)年の少し前に、
アメリカであのような西部劇が制作されたことに思いを重ねたりしたのである。
私は、ジョージ・スティーヴンスの遺(のこ)された作品は、
『陽のあたる場所(1951年)』、 『シェーン(1953年)』、 『ジャイアンツ(1956年)』、
『アンネの日記(1959年)』 、『偉大な生涯の物語(1965年)』とたった五本の作品しか鑑賞していないが、
最良の作品は『陽のあたる場所(1951年)』であり、
完成度が未熟であるが好きな作品としては『ジャイアンツ(1956年)』である。
しかし、あの時代に制作された『シェーン(1953年)』は名作と感じている。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
にほんブログ村
昼下りのひととき、書棚の映画雑誌のコーナーから、一冊の本を取りだして、
読んだりした。
共同通信社の編集された『MOOK21 20世紀の映画監督名鑑』であり、
1999年11月1日に発行された本で、
映画好きだった私は、まもなく本屋で見かけて買い求めた雑誌であった。
もとより映画監督の作品を基軸とした洋画作品が羅列され、解説も的確に表現されていたので、
この後、幾たびか読んだりしてきた雑誌である。
たまたまが、ジョージ・スティーヴンス監督の欄を再読していた時、
『シェーン』を初めて映画館で観た時を思い馳せたりした。
この作品はジョージ・スティーヴンス監督の昭和28(1953)年に公開された作品であり、
私は後年の高校時代の昭和37(1961)年の頃、リバイバル興行として、映画館で初めて観たひとりである。
この作品が日本で初めて上映された昭和28(1953)年を過ぎた頃、
私は小学3年生の頃から、ひとりで映画館に行き、東映の時代劇などを観はじめていた。
この当時、私の住む地域から少し離れた大きな街の駅前の映画館に於いて、
ニュース、予告編、本編の合間、スクリーンの脇にあった煌(きらび)やかなカーテンが動き、そしてスクリーンは閉じられて、
華やかな銀幕となった情景となり、音楽が流れていた・・。
こうした中、雪村いづみの『遥かなる山の呼び声』、『青いカナリア』の唄声が流れ、
時代劇の本編に期待を膨らましながら、
少年なりに華やかな都会のお姉さんの唄声を聴いたりしていたのである・・。
そして唄声を聴いたりすると、東京郊外の映画館であったが、
こうした空間は都会の匂いを感じ、夢のようなひとときであった。
後年の高校生になった頃、『遥かなる山の呼び声』は映画『シェーン』の主題歌だった、
と遅ればせながら知ったのである。
その後、映画『シェーン』を真摯に観たのであるが、
主役のアラン・ラッドより、悪役としてのジャック・パランスに圧倒的に魅了されたりした。
この前後の時代は、映画館に於き、リバイバルを含め西部劇だけでも数多く上映されていた。
『駅馬車』、『荒野の決闘』、『真昼り決闘』、『大いなる西部』、
『OK牧場の決斗』、『リオ・ブラボー』、『アラモ』など満天の星空のように上映され、
私は高校の下校の時、日比谷とか新宿の映画館で観たりしていた。
私は確か3年前に、居間にある映画ビデオ棚から『シェーン』を観賞したのであるが、
45年ぶりだったので、懐かしげに鑑賞し、
あのようなシーン、セリフがあったのかしら、と微苦笑させられたのである。
もとより私の青春期からサラリーマンの時代、そして年金生活の現在まで月日が過ぎているので、
忘れ去ることも多いが、やはり名作のひとつは、この齢になっても、
教示させられることがある。
そして、あの昭和28(1953)年の少し前に、
アメリカであのような西部劇が制作されたことに思いを重ねたりしたのである。
私は、ジョージ・スティーヴンスの遺(のこ)された作品は、
『陽のあたる場所(1951年)』、 『シェーン(1953年)』、 『ジャイアンツ(1956年)』、
『アンネの日記(1959年)』 、『偉大な生涯の物語(1965年)』とたった五本の作品しか鑑賞していないが、
最良の作品は『陽のあたる場所(1951年)』であり、
完成度が未熟であるが好きな作品としては『ジャイアンツ(1956年)』である。
しかし、あの時代に制作された『シェーン(1953年)』は名作と感じている。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
にほんブログ村
私は「シェーン」を映画館では観たことがありません。私が小学生の頃見た「シェーン」のポスターは印象に残っています。
主演のアラン・ラッドは拳銃を抜くのに0.3秒とかクーパーは0.X秒で抜くとか、子供同士で早撃ちのまねをしながら、どの西部劇スターが一番早いのかを言いあったものです。
私の上司が、「シェーン」は名作だといつも誉めていたことを覚えています。
私が「シェーン」初めて視たのはテレビだったと思います。
カラーの映像がきれいでした!
ラストのジョーイとの別れのシーンが有名ですが、私が視ていて驚いたのは、息子ジョーイの母親役でジーン・アーサーが出ていたことです。
とても地味でしたので、あのきらびやかな美人女優ジーン・アーサーだとはなかなか気付きませんでした。
タイタニックをモデルにした1937年の映画「歴史は夜作られる」をテレビの再放送で視て、あまりの美しさに惹かれていましたので、そのギャップに驚きました。
彼女、私の好きな映画「オペラハット」、「スミス都へ行く」にも出ていますね!
ちょっと横道にそれました。
「シェーン」は、映画としては小粒な作品のように思いますが、心に残る名画の一つだと思います。
>「シェーン」は、映画としては小粒な作品のように思いますが、心に残る名画の一つだと思います。
確かに、『シェーン』は、昭和27年の頃に制作して、上映されたのが、
翌年の昭和28(1953)年で、この後のテレビの西部劇などに多々影響をもたらした名画と感じています。
>私が視ていて驚いたのは、息子ジョーイの母親役でジーン・アーサーが出ていたことです。
>とても地味でしたので、あのきらびやかな美人女優ジーン・アーサーだとはなかなか気付きませんでした。
>タイタニックをモデルにした1937年の映画「歴史は夜作られる」をテレビの再放送で視て、
>あまりの美しさに惹かれていましたので、そのギャップに驚きました。
>彼女、私の好きな映画「オペラハット」、「スミス都へ行く」にも出ていますね!
確かこの女優さんは、戦前の作品としては『オペラハット』1936年、『 歴史は夜作られる』1937年、
『 我が家の楽園』1938年、『スミス都へ行く』1939年などに出演されていますが、
私は無念ながら、『 歴史は夜作られる』1937年と今回の『シェーン』1953年しか観ていません(笑)
貴兄は私より2歳齢下と記憶していますが、御歳の割合に、戦前の名画をよく観られているのいるので、
感心致します♪
私たちの世代でも、亡くなった次兄は2歳上、更に長兄ですと5歳上・・
私が小学生の時はもとより、中学生の時に兄たちと歌、映画などを話し合ったすると、
ほんのわずかな年齢の差ですが、大いに差異を実感した体験がありました。
少年時代は、齢の差は大きいと感じたり次第です。
青年時代からは、それぞれお好きな分野に熱中すれば、
5歳ぐらいの差は超越できますが、10歳の差は何々乗り越えません。
このようなことをぼんやりと感じた次第ですが、
貴兄は戦前の洋画の名作を観たのには、驚いたりしながら感心して次第です。