アララ、「最後の晩餐」だったはずなのに…
「舌の根も乾かぬうちに」などとコメントしたら、本人を侮辱することになる。只々、会場準備作業が思いの外早く終わり、友人『ノロ社長』の『なべ焼きうどん生活』の13日目にお付き合いしているだけですから^^;
イエス・キリストの受難の日の前夜、12人の弟子と食事を共にした「最後の晩餐」であるとすれば、その死の三日後には「復活」したとされる。『なべ焼きうどん生活』の継続と「イエス・キリストの復活」を同列のように扱うのは、その宗教に対して失礼であるわなぁ。(ごめんなさい。)しかし、キリスト教に限らず、『宗教』というものの教義に関しては、他の『宗教』の門徒からすると『奇跡(ありえへん!)』と思ってしまう事柄が散りばめられている。『おやじぃ』も仏教徒ということになっているけれど、その『仏教』にさえ、「輪廻」という考え方も存在するのだから。(だからと言って、死後に何かに転生するなどと信じている訳でもない。)まぁまぁ、『宗教』が庶民に広まるためには、誰も見たことのない『死後の世界観』や『救済』してくれる「絶対的」な教祖とそれを裏付ける『奇跡』が必要絶対条件なのかも知れないなんて考えてますけれど…。『おやじぃ』は、この程度の『浅い』人間であるから、知人の葬儀に関しては、その流儀に素直に従うことにしております。しかし、ひとつだけ『承服』出来なかったのは、某宗教団体の葬儀で「故人は既にどこかで生まれ変わっている。」と故人の友人が語ったこと…いやはや、その『教え』はよろしいと頭で理解しても、「生まれ変わっているのだから…」と何か祝い事でもあるかのように、どんちゃん騒ぎをされたのには閉口してしまった。「一家の主が若くして亡くなったというのに、そんなに目出度いかね?」…『教え』なのだから、そういうものかね?「信じる者」と「信じない者」が同席しても、人の「内心」までは覗い知れないのでありますよ…。
白いダリアの花言葉は「感謝」
さて、『常識』と『非常識』…「自分は『常識』というものをわきまえた人間である。」と思い込んでいるから、自分の考えている『常識』というものが、その他大勢も支持してくれているという思い込み…『非常識』と指弾された方から見れば、その『常識』こそが『非常識』と映っているに違いない。「人の弱味につけ込んで…。」「マインドコントロールされている。」etc.とその『宗教』を断じることは容易なのだけれど、「信じる者」の心を解きほぐすのは容易ではないように思える。こうして、「心を解きほぐす」などと述べること自体、我が『常識』の側に戻って来いと言うようなものだから…。宗教法人法に基づく「解散命令」も、宗教団体そのものを消滅させるものでもなく、『教え』を禁止するものでもないから、拙速な『救済法』にも、ある種の危険があるようにも思えるのですけれどねぇ…『おやじぃ』には「被害者」を法で救済することと、『信者』を法で救済することとは似ていて非なるものと思えるのでありますよ。今、信仰されている『宗教』もまた、時の権力によって利用され、場合によっては迫害を受けて来たはずである。厄介なのは「迫害」によって、一層、『信仰者の結束』を強めてしまったりしてね…。
はてさて、『なべ焼きうどん』生活も「体調がすこぶるよろしい。」と自賛していたのでありますが、昨夜は急な『腹痛』を起こし、夜中に事務室で『助け(救済)』を呼ぶことも出来ず難儀してしまいましたよ。13日間も継続したことが原因でもなく、「どこか体調が悪いのだよ。」と気付けない愚かしさよ^^; 「継続は力なり」などと申しますが、食事も心の健康も『偏り』を継続しても、脱力してしまう情けなさかな(笑)