峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

教育者が

2017年12月29日 | 学校教育

報道によると、2016年度に童生徒らにわいせつな行為やセクハラをしたとして、全国の公立小中高校の教職226が処分されたことが文科省の調査で分かったという。過去最多を更新したとのことだが、恐ろしい数字だ。

被害者は、加害者の勤務する学校の児童生徒が半数近くを占めている。また、加害者の勤務する学校の教職員も多い。つまり、先生が同じ学校の児童生徒に手を出し、先生が同じ職場の先生に手を出しているということなのだ。おぞましい話である。
被害に遭った子供たち、そして女性教諭のみなさんのことを思うと胸が痛む。

処分の対象となった行為は「体を触る」(89人)、「性交」(44人)、「盗撮・のぞき」(40人)と続く。「先生」には、およそ不似合いな言葉ではないか。

わいせつ行為をして処分された教員の中には、他の地域で採用され、再びわいせつ行為をするケースもあるという。

悲しくも辛い話だが、これが現実なのだ。
私たちは、これほど劣化した社会をつくりだしてしまった。

いったい、私たちは何を、どう間違えてしまったのだろう。

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ひねくれ者だからこそ

2016年11月17日 | 学校教育

内閣府が発表している資料によると不登校の子供の数は小学校で21,243人、中学校では91,466人、高校で57,644人となっている(平成24年度)。私が子供だった頃、学校に行かないという選択肢はなかった。あの頃の少年の私が今を生きていたら、不登校になっているかもしれない。

同じく、高校を中途退学する子供たちの数は51,781人にも上る。
毎年毎年、5万人超もの子供たちが学校から放り出されているのだ。自ら辞めるという形をとっている(とらされている)子供もいるが、要は学業・生活、いずれかにおいて学校に救われることなく切り捨てられている。つまり、私たちの国の学校教育は、問題のある子供たちを切り捨てることで成り立っていると言えよう。
高校時代、私の友人も万引きをしたことで退学処分となった。確かに、万引きは犯罪だ。よくないに決まっている。しかし、万引きをするような少年の魂を救ってくれるのが学校であり教師ではないのか。そうでなければ、そのような子供たちを救ってやれるのは誰か。

私は、気が付いた時には教員に反抗する子供になっていた。教員に当てつけのつもりで勉強しなかった。愚かなことに、勉強なんてしてやるもんかと決心していた。こんな辛い気持ち、優等生には解り得るはずもない。
だが、そんな経験を持つひねくれ者だからこそ塾生に語ってやれることがある。親や先生に反抗するのはいい。けれども、自分自身の気持ちには素直でいろよと。
親や先生に気持ちを取られていると、自身の内なる声に耳を澄ますことができなくなってしまう。何のために人は勉強するのか?本当に勉強しなくてそれでいいのか?じっくりと自分自身に問いかけてみなければならない。

人生に無駄なことは一つもない。ある方がそう話しておられた。
いじめられたことが、学校に行けなかったことが、子供の頃に勉強しなかったことが、誰かの何かの役に立つ時がきっとくる。
原発事故で福島県から横浜市に自主避難してきていじめに遭ったという少年にもそう伝えたい。

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つらいけど ぼくは いきるときめた

2016年11月17日 | 学校教育

きょうの朝日新聞の2面「ひと」欄に「子供を主役にしたいじめ防止活動に取り組む小学校長」という見出しで東京都足立区立辰沼小学校校長・仲野繁さんのことが紹介されている。
仲野さんは、中学生時代、人前で何度も足払いで倒され、泣きながら家に帰っていたという。その辛い体験が校長となった仲野さんの生活指導の根っこになっているのだろう。
「多くの学校が学力向上に力を入れる中、いじめを芽で摘み、安心して過ごせる学校作りこそ学力の土台と考え、子供と向き合う」そうだ。彩理さんの通う小学校の校長は、何を中心に考え、それに沿った行動をする人なのだろうか。

一方、同じ新聞の35面には福島第一原発事故で福島県から横浜市に自主避難した中学1年生の男子生徒が深刻ないじめを受けていた問題が取り上げられている。
男子生徒自身が勇気を出して公開した手記によると「ばいきんあつかいされて、ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった。福島の人はいじめられるとおもった。なにもていこうできなかった」「いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」などと心境が綴られている。

市教委の第三者委員会の報告書によると、男子生徒は小学校3年の6~10月に不登校になる。登校再開後もいじめがあった。多額の金品のやり取りがあった小学5年の5月末から再び不登校に。
保護者は学校に相談。学校は金品のやり取りについて、他の児童の保護者からの情報で把握したが、いじめと判断しなかった。
保護者は同年11月から市教委にも相談。いじめ防止対策推進法に基づく重大事態としての調査を求めた。市教委は今年1月になって第三者委員会を立ち上げたという。男子生徒の代理弁護人は「学校も市教委も深刻な被害の疑いを把握しながら長期間放置した」と批判している。
この小学校の校長は、教員として何を中心に据えて生きてこられたのだろう。あまりにも酷い。教育が死んでいる。

いじめで子供たちが自ら命を落とす事件が毎日のように報道されている。学校は、子供たちの魂や命を救ってくれるところではないのか。

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道徳の教科化

2016年09月20日 | 学校教育

2018年度から小学校で、2019年度から中学校で道徳の授業がこれまでの「教科外の活動」から格上げされ「教科」となる。それに伴い、通知表に教員の「評価」が書きこまれるようになった。ただし、5段階評価のような数値で表すのではなく文章で記述する方式になるらしい。

「道徳」とは、人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為を規制するものとして、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的なもの、と広辞苑にある。

道徳心を育むことは大切であろう。そして、それを学校教育の中で行うことに異議を唱えるものではない。しかし、道徳心が「外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的なもの」だとすれば、それは「評価」というようなものにはそぐわない。

教員によって評価されることで子供たちの道徳心は果たして健全に育まれるものなのだろうか。
大人の作った型を押し付けたり、枠にはめ込むのではなく、もっと伸びやかで、もっと大らかで、もっと自由な環境を保証することで、彼ら自身の内側から聞こえる魂のささやきに耳を傾けさせてやることの方が重要だと考える。

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変わらないね

2016年04月07日 | 学校教育

午前中に佐々中学校の入学式が行われ、出席した。
男子74名、女子61名の計135名の子供たちが中学生として新たなスタートを切った。

中学校の入学式と聞いて、自身のことを思い出す人の多くは若者だろう。私くらいの年齢になると、既に自身の入学式のことなどすっかり記憶から抜け落ちてしまっている。小中学校の入学式や卒業式で子供たちの様子を見ながら思い出すのは、私の子供たちの未だ幼かったあの日のことである。

それにしても、校長の式辞や教育長の告辞は何故あんなにも紋切り型なのだろう。
「自ら進んで学習に励め」「自主性が必要」「根気が大切」「心身ともに鍛えよう」等々と百年一日、お定まりの言葉が並ぶ。しかも、ほとんどの子供の実態とは程遠く、言われることが出来ないから悩み苦しんでいるのにだ。

肝要なのは、美辞麗句を並べ上げ、そつなく式辞・告辞を読み上げることではなく、何故、自ら学習に励むことが大切なことであり、何故、自主性が必要なのか、はたまた何故、根気が大切で、何故、心身を鍛えなければならないのかを説く共に、どうすれば、それらを身に付けることが出来るようになるかを、丁寧に語りかけることだろう。

時代が変わっても変わらない、変えられない。

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変わらなければ

2010年06月10日 | 学校教育
昨日は午後から町の民生児童委員協議会の定例会に出席した。
冒頭、おいでいただいた町にある2つの小学校長と中学校長、それに幼稚園長と意見交換した。

全国どこでも同じだろうが、私たちの町の学校もまた虐待や不登校、その他、さまざまな今日的問題を抱えている。そして学校は、それにどう対応していいか皆目見当をつけられず、彼らにとって信じられない目の前の出来事に、ただ呆然と立ち尽くしている。

学校が悪い、教員が悪いと言っているわけではない。もはや、ことは彼らだけではどうにもならないところまできている。
現状を嘆いているだけでは、あるいは体裁を取り繕【つくろ】っているだけでは始まらない。
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暗くて遠い道

2010年03月16日 | 学校教育
先ごろ、県内の小中高校で起きた暴力行為等の実態調査の統計が報道された。県教委の児童生徒支援室という部署の発表とある。
それによると、県内の小中高校で児童・生徒が起こした暴力行為は487件で、07年度の約1.7倍となっている。
暴力行為の発生数は小学校16件、中学校357件、高校114件で、いずれも前年度より増加しているが、教師に対する暴力・生徒間での暴力・それ以外の人に対する暴力・器物損壊の4分類のうち、中学校での器物損壊は07年度の5倍にあたる127件を数え、際立って増えたとある。

器物損壊が相次いだという長崎市内の中学校長は「教師が叱ると、感情をコントロールできなくなり、ものに八つ当たりする生徒が増えたように感じる」と語っている。
また、長崎市校長会で生徒指導部長を務める校長は、特定の生徒が問題を繰り返すケースが少なくないとした上で「両親の不和や経済的な困窮など家庭環境に問題があり、学校でストレスを発散させているようだ」と語っている。

校長の言葉に「教師が叱ると」とあるが、それが「叱る」というようなレベルではなく、権力や力を持つ者の弱者に対する一方的な暴力だとすれば、その「被害者」である生徒は暴力でもって、さらに弱い者に向かうし、時に物に向かうだろう。子供の有り様は、大人の写し絵そのものだ。
また、それが「家庭環境に問題があり」人間性を喪失している子供たちであればなおさらのことだろう。

人間らしさを失ってしまった子供が、魂の自立していくのは容易なことではない。それに添う役割を、彼らの家庭・親に期待するのはあまりにも酷だ。
彼らも加害者であり被害者なのだ。

これらの子供たちは、どうやって失われた人間性を回復すればいいのだろう。
彼ら自身の中に潜み、彼ら自身がいまだ気付いていない、まぶしいほど光りうる力を引き出す手伝いをしてくれるところを、いったいどこに、だれに求めればいいのだろう。
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どこに行く

2010年03月11日 | 学校教育
長崎県西海市立中学校の30代の教諭が2年の男子生徒に体罰を加え、肋骨にひびが入るケガを負わせたと新聞・テレビが伝えた。

県教委・市教委によると、教諭は授業中、生徒に服装の乱れを注意したが生徒が素直に聞き入れなかったため、平手で顔を数回たたき、ひざで背中を数回けったという。
これは、体罰というより一方的な暴力であり、明らかな虐待だ。さらに驚くことに、校長は生徒の保護者に対し「ことを荒立てたくないので、打撲したことにしてほしい」と申し出ていた。

平成21年版青少年白書によると、全国の児童相談所や警察によせられる児童虐待に関する相談件数は増加の一途をたどり、児童虐待事件検挙件数もこの5年間で1.3倍となっている。20年度中、45人もの子供たちが虐待によって尊重されるべき生命を絶たれた。

児童虐待問題は依然として社会全体で早急に解決すべき重要な課題だと白書にはある。
まして長崎県では過去に少年によって引き起こされたいくつかの不幸な事件があり、どの県よりもそのことを重く受け止めなければならないはずだ。実際、子供の健やかな心を育むには、大人の在り方こそが重要だと県をあげて「ココロねっこ運動」だとか「長崎っ子の心を見つめる」教育週間といったものに取り組んでいる。
しかし、いっこうにこの種の事件が後を絶たない。家庭における親の児童虐待の件数は増え続け、学校における教諭の虐待もなくなることはない。

何故なのだろう。
他のさまざまな問題もそうだが、一向に明るい兆【きざ】しが見えてこない。それは、私たちの社会のリーダーが体裁だけをとりつくろっているからだろうか、それとも「一生懸命」のベクトルの向きがあらぬ方向だからなのだろうか。
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学校の存在意義

2009年07月12日 | 学校教育
柳ケ浦高が大分大会初戦出場へ バス横転事故、教諭送検(共同通信) - goo ニュース

週末に車を運転していると、しばしば高校の野球部のマイクロバスを見かける。都府県の内外を問わず週末を利用して練習試合に出かけているようだ。
高速道のサービスエリアでは、食べ物をほおばっている丸刈りの、がたいの良い異様な集団と出くわすことがままあるが、ほぼ間違いなく野球で有名な高校の部員一行だ。
その他の部活動のマイクロバスを見かけることはほとんどない。

私の知るところでは、高校の運動部で強豪校と呼ばれるようになったところの監督のほとんどが、県内外の強豪校との練習試合がいかに重要か口をそろえる。もっともだと思う。そのためにバスは必要不可欠なものとなる。

事故当日、柳ヶ浦高校野球部は自前の専用バス2台を連ねて夏の甲子園県大会開会式場に向かっていた。
柳ヶ浦は野球で有名な高校だ。全国から部員も多く集まるのだろう。このたびの事故で犠牲になった吉川君は奈良県の出身とある。野球部は全寮制で、80人の部員の大半が県外出身者だと伝えられている。

柳ヶ浦高校野球部のバスは、普通見かけるマイクロバスではなく大型のバスだったようだ。それを2台も連ねていた。普通の高校の野球部ではそうもいかないだろう。
甲子園に出場するともなれば莫大な寄付が集まる。清峰高校でも寄付金をめぐり、いろいろなごたごたが起きた。それほどお金が集まる。
甲子園常連校の柳ヶ浦高校野球部ともなれば、大型バス2台を自前で所有するのもそう難しいことではなかっただろう。また、野球部の活躍こそが柳ヶ浦高校を柳ヶ浦高校たらしめるのであるとすれば、同校にとってバスはどうしても必要なものだった。
しかし、それが今回の不幸な事故につながってしまった。

高速道路でのハンドル操作の過ちは、死亡事故に直結する。あふれるほどの未来を抱えた少年たちを乗せた大型バスの運転をしていたのは、大型免許を取得して間もない26歳の教諭だったという。
大分県警の調べに対し、彼は「速度の出し過ぎで、ハンドル操作を誤った」と供述しているという。

26歳の若い教師は昨年4月に採用され、同年6月に大型免許を取得したばかりだったそうだ。いくら若くともプロの教師である以上、教科の指導にかけてはそれなりの覚悟を持っていただろうが、47人もの人間の尊い生命を預かるドライバーとしての覚悟があったのかどうかは疑問だ。
プロのドライバーをつけなかった学校の責任は重大だ。

また、吉川君は車外に放り出されたことが死亡の遠因と考えられる。シートベルトを着用していれば、車外に放り出される確率ははるかに低かっただろう。実際、シートベルトをしていた教諭はケガさえなかったらしい。
しかし、事故を起こしたバスは運転席以外にシートベルトはなかったとある。
私も、福岡までの行き帰りに高速バスを利用することがあるが、乗客のシートベルトは義務付けられている。
学校の過失は、あまりにも大きい。

果たして、学校は何のために、誰のためにあるのだろう。

60,9-16,8
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命が輝くとき

2009年06月29日 | 学校教育
〔長崎県のすべての公立学校では、平成21年5月から7月の間のいずれかの1週間を「長崎っ子の心を見つめる」教育週間として、教育活動を公開し、保護者や地域のみなさんと子どもたちとの交流を行います。ぜひお近くの学校にお出かけいただき、「心豊かな長崎っ子」を育んでいただければ幸いです。〕

これは、長崎県教育委員会のHPに掲載されている「『長崎っ子の心を見つめる』教育週間」についての案内文章だ。文字図【もじづら】だけ読んでいると、どんな素晴しい教育が行われているのだろうかとワクワクするほどだ。

女房どのの勤める学校でもその「教育週間」とやらが始まった。
今夜は、担当の地区の懇談会に出席してきたらしい。帰宅は午後9時頃だった。

シャワーを浴びた後、遅くなったからと食事もとらず、すぐに持ち帰った仕事にとりかかっていたが、まもなく突っ伏した。
こちらは、ブログを記し始めたところだったが、見過ごせずマッサージを施【ほどこ】した。

近年、地域で子供を守ろうとする動きが高まっている。子供の登下校に付き添う保護者や地域の高齢者たち。危険な所をチェックし、監視の目を光らせる。
隣町では小学校の下校時間になると、広報無線でその旨の案内がなされる。
子供たちにとって、まさに受難の時代だ。

あれは、私が小学生の3,4年生の頃のことだ。1人での帰り道、途中でお腹が痛くなった。便意を催し、家までもちそうにない。そこで繁みに飛び込み用を足した。もちろんポケットティッシュなどというシャレた物などなかった時代だ。手近にあった葉っぱで拭いた。

スッキリした私は、通学路に戻り何事もなかったかのような顔をして再び家路に着いた。
図々しくなった今だからこそ、こんな話も公表できるが、3,4年生の少年にとっては命と引き換えにしてでも守らなければならない恥ずかしい事柄だった。

また、中学の3年生の頃、やはり学校からの帰り道、当時、思いを寄せていた女の子の後ろをずっとついて帰ったことがあった。淡い恋心なんて、恥ずかしさの塊みたいなものだ。

死んでしまうと思うような危険な目にも何度かあった。いずれのことも友だちならまだしも、大人になんて知られたくなかった。
あの頃、親や大人は適度に子供をほったらかしておいてくれた。そのおかげで「心豊か」に育ったかどうかは疑問だが、誇りだけは失わずに生きてこれた。

本来、子供は子供たち同士の遊びの中から社会性を身に付け、だれにも干渉されず一人きりの世界に浸ることで自己を確立させ得る。
そのことを考えるとき、むしろ親や大人の目は邪魔になる。
子供というのは、親の目の届かないところでさまざまな経験を積み重ね成長していくものなのだ。悪いことも、危険なことも彼ら自身の命が乗り越えていくものなのだ。
そして、そのときしか彼らの命がキラキラと輝くことはない。そのことを私たち大人は心に留め置きたい。

学校が良い子を演出し、子供が良い子を演技し、みんなが萎縮し、くたびれ果ててしまうような「教育週間」って、いったい何だ。

16,5-17,8
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