小学4年生から中学3年生までの6年間の長きに渡り、私のもとに通って来てくれていた塾生H君が先週金曜日の学習を最後に巣立っていった。
昨日、彼のご両親がH君を伴い花束とお礼の品を抱え、わざわざご挨拶に見えた。本来、大切なお子さんを預けていただき、貴重な時間と労力と金銭を費やしていただいたお礼を述べなければならないのは私の方であり、中学卒業と高校入試合格のお祝いの花束を贈らなければならないのも私の方である。
実は、H君のお父さんも中学生の頃に私のもとに通って来てくれていた。有難いことこの上ない。
H君のみならず、他の受験生も全て志望校に合格を果たし、それぞれお礼もいただいている。
裏庭の桜が開花し、ツツジやハナミズキの蕾も大きく膨らみ始めている。有難く、嬉しい春の訪れだ。
先週末から沖縄へ旅行に出かけていた研二くん・絵理子さん家族が今日帰って来たようだ。
一方、友人と北海道旅行を楽しんだくるみさんは今日から仕事に戻っているらしい。
お母さんと一緒の買物から帰って来た糸葉さんは、風呂場でしばし水遊び。
皆それぞれの夏を謳歌している。
学校が夏休みに入り、塾生たちが朝からやって来るようになった。
心身ともに伸び盛りの思春期の子供たちは、真夏の太陽の強い光を柔らかく受け止める庭の落葉樹の緑の葉のように眩いほど美しく生命力に満ちている。
一昨昨日、小学2年生の彩理さんと5歳の結理さんは、2人して近所のコンビニまで生まれて初めてのお使いに出かけたという。
家からコンビニまでそれほどの距離ではないが、途中、片道2車線の交通量の多い道路を横断しなければならない。2人はもちろんのこと彼女らのお母さんも、きっとハラハラドキドキだったに違いない。
子供が自らの意志で行動しようとする芽を伸ばしてやるのはとても大切であるように思われる。その際、様々なリスクを伴うのだが、そこで問われるのが普段の暮らしの中での子供に向き合う親の、あるいは塾生に向き合う私の腹の据え方ということになろう。
生命身体の危険とまではいかなくとも、日常の生活の中で親にとってのリスクはごろごろ転がっている。だからといって親の思いばかりを優先させていると子供の自主性は見事に削がれることになりかねないよう思われる。
非常に強い勢力の台風18号が九州北部に明朝接近するとの予報が出ている。
役場総務課では台風の進路をにらみながら、それでも明るいうちにと午後5時、防災行政無線で「避難準備」を出した。
「避難準備」は「避難勧告」の前の区分にあたり、その基準は、暴風の襲来により、短時間後に危険が予想されるとき。また、相当な豪雨で、短時間に危険が予想されるときとなっている。
町公民館に避難所が開設され、明日は幼稚園・小中学校が休園・休校となった。
今夜、塾生の1人が「先生、明日、塾あるんですか?」との問い。「教室は開けています。天候を見て、親御さんと相談して決めなさい。」と私。
私塾は、いたって柔軟で融通が利く。
きょうは、本来ならば三女が内定式に臨む日だった。空路、日帰りで東京へ向かう予定がこの台風のせいでそれが延期になったとのこと、台風襲来の予報は、様々なところで様々に影響を及ぼしているのだろう。
台風18号、このまま北上して日本海を抜けていってくれたらいいのだが。
午前10時頃、竜治くんが訪ねて来てくれた。
彼は、この春に熊本大学工学部を卒業して、同大学大学院に進学した。その矢先、この度の地震に遭ってしまった。
前震が起きた際の状況、本震の際の状況、その後の熊本の状況、学友の状況、大学の状況、地元長崎県に帰省している熊大生による募金活動の状況等々を語ってくれた。
熊本大学は5月6日まで休講になっているそうだが、希望に胸膨らませ入学した新1年生、また、就活に臨んでいる学生のみなさんの心情を察すると心が痛む。
竜治くん自身も、夢を持ち進学したばかりで、やらなければならないこと、また、やろうと思っていることがままならない状況に面食らっている。
あれこれ話しているうちにお昼時になった。女房どのが昼食を用意してくれたので竜治くんと2人、向かい合って昼ご飯を食べた。
2時過ぎから「大野モール」で仲間たちが募金活動をしているのに合流するからと、1時半頃帰っていった。お母さんやおばあちゃんが心配する中、明日、熊本へ戻るという。
熊本県を中心とする地域で、これ以上、地震が起こらないことを願うと共に、被災者のみなさんが一刻も早く安心して暮らせる状況が、また児童・生徒・学生のみなさんが落ち着いて学業に励むことの出来る環境が戻って来ることを切に祈る。
昨夜は、25歳になる2人のかつての塾生から誘いを受け、飲んだ。
最初に居酒屋で腹ごしらえをし、次にカラオケで歌いたいというのでスナックへ行き、最後にバーへ連れて行った。
2人共、勤め先は異なるものの役所に勤めている。家族の問題、職場の問題、色々な話をした。
最近とみに、20代から30代にかけての塾生OBたちから連絡が入るようになった。
塾生たちが、人生という長い道を歩む途上で何らかの事態に直面したとき、私の顔を思い浮かべてくれるとすれば、教師として冥利に尽きる。
彼らが15歳の時に話してやったことを10年後も覚えていてくれて、それを今、噛みしめてくれているのを嬉しく思う。
町内会の総会が翌午前中に控えていたが、深夜3時頃まで楽しくも真面目な酒を飲んだ。
日曜日、午後3時になり、田中先輩と合流して「こころ夢未来高等学校」の開校式典に出席、引き続き行われた開校祝賀会にも、今度は後輩のコーチ・選手3人も合流し一緒に出席した。
祝賀会では岩永学園グループの代表であり、田中先輩の高校での後輩にあたる岩永守弘さんを始め、様々な方と色々なお話をさせていただき、大変有益な時間を過ごすことができた。そんな中、久し振りに懐かしい方にお会いすることが出来た。学習塾、智翔館の総塾長である加納達也さんだ。
私は学習塾稼業を始めて30年以上になるが、これまで学習塾のどんな組織にも入って来なかったし、他の学習塾のみなさんとも全く交流がない。その唯一の例外が加納さんだ。
加納さんと最初にお目にかかったのが約20年前になろうか、大村市の橘香館高等学校の学習塾対象の学校説明会の折だった。説明会が終わった後、橘香館に送り出していた生徒がいたことから教員に応接室に招かれた。ところが狭い応接室は教職員と塾関係者で席が埋まっていた。その時、自ら席を立ち、私に椅子を勧めてくれたのが加納さんだった。
それから数年経ったある時、大学受験を失敗した元塾生から今後についての相談を受けた。親に負担をかけたくないので自宅で浪人したいという。そこで、アルバイトで学費を賄うことを提案し、あの時のことを思い出し、彼のところならば面倒見てくれるだろうと加納さんに頼んだ。彼女は翌年、見事に第1志望校に合格した。
また、5,6年前になるだろうか、依頼を受けてH.O.C株式会社という企業の社員のみなさんの研修のために毎週土曜日の午前中3時間の講義を2,3年続けていたことがあった。しかし、地域で求められる役割が次第に大きくなり、講義も金曜土曜と続くこともあったりして、それなりの準備を必要とする講義を続けるのが困難になっていた。
有難いことにずいぶんと慰留されたが結局、辞退させていただくことにした。その際、後任を頼まれたのだったが、紹介をしたのがやはり加納さんだった。その時も、心やすくお引き受けいただき、きちんと跡を継いでいただいたようだった。
人との出会い、そして繋がりには不思議なものがある。
その加納さんに、まさかこんな所でお会いするとは思いもしませんでしたとお声をかけていただいた。
改めて名刺交換をさせていただいたが、加納さんの名刺からは「こころ夢未来高等学校」の県北地域を請け負っておられるのを始め、多様な学習塾関連のビジネスを展開しておられる様子が伺えた。学習塾業界も少子化で苛烈な競争の時代に入っていると聞く。そんな中で生き残りをかけての戦いに臨んでおられるご苦労を感じた。
一方、私のは佐々町での地域の役割を示すそれだった。
私は、学習塾ではなく、私塾を営んできた。所詮、私塾は1人1塾だと思ってきた。
金儲けは出来なかった。しかし、お金以外のものは、たくさん儲けることが出来た。競争に身を置かないでやってきて良かったとつくづく思う。
加納さんには健康に気を付けて頑張っていただきたいと心から願う。
今日は、午後6時半から会議が1つ入っていた。小学6年生の授業が午後5時から7時までだから途中で抜けなければならない。女房どのに後を託して、午後6時10分には家を出た。会議が終了したのが午後8時過ぎ、既に中学生が来ている時間だ。
大急ぎで帰宅し、教場に入ると、みんなにやにやしている。
「先生、テレビに出てましたね!」
昨日の佐々川桜堤遊歩道周辺の清掃活動の際、テレビ局の取材を受けていた。
公立高校の入試が3月の8日・9日、いよいよ目前に迫って来た。この夜は受験生ばかりだった。時々、学習の手を休ませ、直接、勉強に関係のないことを、あれこれ話してやるのだが、この夜は、いきなり砕けた話になったので今夜の塾はリラックスタイムということにした。
私が学生時代、仲間と共にレコードを出したことを話し、そのレコードやブロマイド付きサインがネットオークションに出ている実際を見せ、現物のそのレコードを目の前に見せてやると、この人は何者なんだみたいな顔をして目を丸くしながら私の話に聞き入っていた。
後半は、質問の多い入試での面接に臨む心構えについて話してやり、最終盤は運を味方につける方法、自分らしく生きる方法などなど盛り沢山でこの夜の授業を終えた。
高校に入ることが目的ではない。高校の3年間をどう過ごすかが大切だ。ガンバレ、受験生!
小学4年生になった4月から、私のもとへ通って来てくれている小学6年生の男の子がいる。彼の父親も中学生の頃、私のもとへ通って来てくれていた。
先日、その男の子の母親から、同じ学年の男の子の母親に塾を紹介していたのでよろしくお願いしますという旨の話をいただいた。
その翌日、今度は、かつて私のもとへ通って来てくれていた本人から、友人に塾を紹介したのでよろしくお願いしますとの電話が入った。
彼女の声を聞くのは、高校の卒業式の日に会って以来、実に15年振りのことだった。友人のお子さんも小学6年生ということだった。
その2人の小学6年生が昨日、午後5時から7時まで私のもとへやって来た。
先ず、1時間ほどあれこれ話をした。男の子と女の子だったが、2人共、私が話すのを一言一句逃さず聞いてやるといった面持ちでキラキラと目を輝かせ、食い入るようにこちらの話を聞いてくれた。また、私の問いかけにも精一杯誠実に応えてくれた。
新聞に「生徒募集」のチラシを入れたのは20年以上も前に2,3度、その後は、おかげさまでご紹介をいただくことで細々とやって来られた。それがこのところ、かつて通って来てくれていた塾生が父親・母親になり、今度は自分の子供を通わせてくれるようになった。あるいは叔父・叔母として勧めてくれたり、また友人の子供のために塾を紹介してくれるようになってきている。嬉しく、そして有難い。
自身の子供たちと一緒にいたいというところから始めた文字通りの私塾の仕事だった。そろそろ店じまいをとも考えるが、そう簡単に辞めるわけにもいかないとは思っている。