峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

不意

2010年10月26日 | 夫婦

数ヶ月前になるが、ある日曜日の夕方、佐世保の夜景を見に行こうと女房どのと車で出かけた。

 

西九州自動車道が延伸し、この春には我が家から車で5,6分の所に新しいインターチェンジができた。

新たに供用されるようになった区間のうち港インターから海の上を通り、佐世保市街地を見下ろし、弓張岳を貫くトンネルに入るまでの眺めが実にいい。とりわけ夜景はなかなかのものだ。

 

それにしても、人間のすることはどうだ。海原に道路を伸ばし、山腹に巨大な穴を開ける。利潤・利便・支配、人間の欲求は留まるところを知らない。

眺めがいいとか、子供や孫の住む福岡・大村が近くなったと、ただただ喜んでばかりはいられないだろう。

 

陽が落ちるまでには間があった。

夕食をとるため腹をすかそうと、2人して日本一長いアーケードを歩くことにした。

 

アーケードの四ヶ町商店街の端からぶらぶらと歩き始め三ヶ町商店街の端まで来たところで、たった今、客を見送りに出てきた店員の方に自然と視線が行った。

気が付くと彼は私を見てニコニコと微笑んでいた。瞬間、なぜ彼が微笑んでいるのかが分からなかったが、ややあってその謎は驚きと共に消えた。微笑みの主は高校時代の親しい友だった。

すぐに彼と分からなかったのは彼がユニフォームに帽子をかぶっていたからだけではなかった。彼の前の仕事からして目の前の情景は思いもよらないことだったのだ。

 

店の名は「ケバブ・スタンド・プラス」、「ケバブ」とはトルコやイランで広く親しまれている肉料理だという。それをファーストフードにして販売している。最近オープンしたばかりだという。

店頭で「ケバブ」について熱く語る彼の話を制し、とにかく食べてみようと女房どのと店に入った。

店内は、こざっぱりとしていた。店に入るとすぐに彼の甥っ子になるという青年を紹介された。笑顔の爽やかな青年だった。2人で店をやっているという。

 

彼の店では、焼いた肉をそぎ落とし、それを内部が空洞になっている薄いパンの中にサラダと共に挟んで出している。

美味しかった。

私たちに続いてお客さんが入ってこられたので長居は無用と、食べ終わるとすぐに店を後にした。

 

彼とは高校で知り合った。誘われるまま度々彼の家に泊りがけで遊びに行ったりする間柄だった。

高校を出た後、それぞれの道を歩み始めてからは会ってゆっくり話すこともなくなったが、私がこの町で暮らすようになってから、彼の子供が小学生の頃に女房どのが受け持つというような巡り合わせにあった。

 

彼は高校生のころからバイタリティーあふれる男だった。彼の意気消沈した姿を見たことがない。常に笑顔で夢を語っていた。

そして、この日もあの頃と同じように笑顔で生き生きとして店のことを話してくれた。

 

人生はドラマチックだ。

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広場を夢見て⑧

2010年10月24日 | 町内会長
先週木曜日、「僕らの広場」の地主さんから町の社会福祉協議会と私たちの町内会に寄付金を贈りたい旨、お電話をいただいた。

先の「広場を夢見て」に夢が現実のものとなった今、いろいろ思うことがあるといくつか記したが、あらためて「人情」と「善意」を思っている。
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秋の色

2010年10月22日 | 暮らし

穏やかな秋の陽射しに誘われ、久しぶりに我が家の小さな森を訪ねた。

数本あるハナミズキの内、この木が1番大きく育っている。 
                    
カーポートの傍や居間の前のヤマボウシは、すっかり葉を落としてしまったのに比べ、こちらは未だ紅葉さえしていいない。

今年もキウイが鈴なりに実をつけている。   

ムベの実が熟し始めている。大きく膨らんだ実を割って頬張ると口中に甘みが広がった。

今年は次郎柿が数個しか実をつけていないが、富有柿は相変わらずだ。

柚子の木も相変わらず元気に枝を伸ばし、実をたくさんつけている。これから少しずつ色づいてくる。  
     
森を歩きながら、そこここに生るムカゴを摘まんで口にした。

ヤマボウシの先から続く小さな森は、我が家の者さえほとんど立ち入ったことがない私だけの空間だ。束の間、森に遊んだ。

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広場を夢見て⑦

2010年10月21日 | 町内会長
それは2007年4月13日の町内会長会での総務理事とのやりとりから始まった。広場を夢見て
あれから3年半、とうとう夢見てきた「僕らの広場」が先月末の町議会で承認され、現実のものとなることが正式に決まった。

私たちの町内会に町議はいない。有力な商工業者もいない。行政や議会に「顔が利く」人など1人もいない。
そもそも、町内会のみなさんが広場の存在を渇望しているわけではなかった。したがって町内会全体としての運動の盛り上がりなどなく、総会を始め班長会や各種行事の折に進捗【しんちょく】状況を話してもまったく反応がなかった。
しかしそれは、それぞれの家庭がそれどころではないほどの経済的、あるいは精神的に進退きわまるような状況を抱えていることによるものだったり、端【はな】からそんな話がうまくいくはずなどないといった「お上」に対するあきらめ、絶望からくるものだったのかもしれない。
そんな中、女房どのと町内会副会長の2人だけは、折々の私の報告に一喜一憂してくれた。

土地購入だけで1千万円を超える事業がとんとん拍子で決まるわけがないのは分かりきったことだった。
ゴールが見えたときも、逆にゴールが見えなくなったときもあった。ただ、あらゆる機会をとらえ、その時の町長、副町長、議会議長、町議、町内会長仲間のお1人おひとりにいかに私たちの町内会に「広場」が必要かを丁寧に話し、ご理解を得ることだけを続けてきた。
そのうちに、あまりしつこいのもどうかと、こちらがその話を遠慮していると先方から「広場」の話をしていただけるようになった。地主さんに対しても誠実に接することを心がけてきた。

最後のひところがりを得ることができた今、いろいろと思うところがある。それは、熱意・共感・信頼・忠実・決断、そして希望。
貴重な経験をさせていただいことに感謝している。
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町内会の可能性

2010年10月18日 | 町内会長
昨日開催された町内会対抗の大綱引き大会に私の住む西町町内会も出場し、秋晴れの1日を町内会の仲間と大いに楽しんだ。
大綱引き大会は1チーム男女混合で25名の選手が必要だ。毎年その数を確保するのに苦労する。しかし、それも町内会のみなさんとコミュニケーションを深めるいい機会だとポジティブにとらえている。

この日、福岡に戻ることになっていた有紀さんと女房どのにも加勢を求め辛うじて25名そろい第1試合目に臨んだ。
結果は1本先取されてから2本取り返すという鮮やかな逆転勝利。ここで、有紀さんと女房どのが抜けることになり、もう1つ勝てば決勝リーグ進出という第2試合目は23名で戦うことになった。
有紀さんと女房どのが離脱したからというわけでもないが、2試合目は準優勝した神田町内会チームに敗れ、決勝リーグ入りはならなかった。

後片付けも含め、午後3時半頃に大会が終了。集会所に戻り、午後4時頃から慰労懇親会を始める。

2,3年前から、この大会に若い世代がご夫婦で参加してくれるようになってきた。懇親会にも家族で参加してくれる。この日も、彼らの幼い子供たちのにぎやかな声が集会所に響いた。

私の傍にいた4人の若い「お父さん」たちに「イクメン」という言葉を知っているか尋ねると、1人も知らなかった。そこで「イクメン」談義を始めると、彼らは熱心に聞き入ってくれた。

ところで、町内会には「婦人部」はあるが、男性の組織がない。
男性同士のつながりを強くすることで、町内会に何か新たなムーブメントが出てくる可能性を感じ、昨年度あたりから町内会に住む男性の組織化を考えていたが、先のソフトボール大会出場後の慰労懇親会で、事前に了承をいただいていたお2人の名を挙げ、若い世代をまとめる世話役と50・60代をまとめる世話役の承認を仰いだところ、満場一致で認めていただいた。

歯車が動き出したのを感じている。
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生きる力

2010年10月14日 | 父親と子

私の誕生日を、有紀さんはこんなメールで祝してくれた。
「誕生日おめでとう。これからも私にいろんなことを教えてくれるお父さんでいてね。私もお父さんみたいにしっかりした考えを持てる人間になりたいです。10月にお父さんとお母さんに会えるのを楽しみにしてるよ。いっぱい話しきかせてね」

そして、子供たちが催してくれた還暦祝いの席で渡されたみんなからのメッセージボードに、有紀さんは再びこう記してくれていた。
「お父さん、還暦おめでとう。人のために自分の使命を果たそうとするお父さんの姿を見て、私は何をするべきなのかと考えさせられます。これからも多くのことを教えてください」

こんな私からでも、有紀さんは学ぼうとしてくれている。それが私の生きる力となる。

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仕事って

2010年10月13日 | 父親と子
ようやっと、国勢調査員の任務を果たし終えることができた。
昨日、第1回目の国勢調査票提出日だった。すでに担当区域内の全ての調査票が回収できていた。提出に伴う必要な書類への記入を済ませ、最初に渡された道具一式と共に役場へ赴き、企画財政課の担当者にそれを渡した。

日一日と秋の気配が色濃くなってきている。
有紀さんが私の還暦祝いに絵理子さん家族と共に帰って来て、そのままいる。ちょうど教育実習を終えたところで前期終了、秋休みに入ったそうだ。
教育実習では教員という職業も悪くないなと感じたが、どうしてもそれに就きたいとまでは思わなかったという。かといって他に就きたい仕事も目下のところ見当たらないともいう。

私は、有紀さんと同じ年の頃、演劇の演出を志した。振り返ってみると、端【はな】から「就職」などということを考えていなかったことに気付く。大馬鹿者だ。
が、それでもその後なんとか職に就くことができた。そして、辛うじてだが、こうやって生かせていただいている。

お金を稼ぐためではなく、人間の生き方の一部として仕事をするのだろう、と私は考える。
やはり振り返ってみると、私は導かれるように今の職業についている。
だから、私は有紀さんに言っている。差し当たり気が向くままに進めばいいと。
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美味いハイボールを

2010年10月04日 | 町内会長
昨朝は、前夜の雷を伴う激しい雨で、予定していた町内会清掃と、それに引き続き行う予定の小浦自然公園入り口付近の除草作業を順延せざるをえなかった。

午前8時を過ぎた頃には雨も上がり、おかげで午前中に第一弾国勢調査票の回収に出向くことができた。しかし、まだ書いていないお宅が多く、また、すでにお出かけのお宅もありで、次回の訪問日を決めたり、連絡メモを書いて郵便受けに入れたりと予想以上に手間隙がかかった。

昼食をとり一休みした後、久しぶりに車を洗い、ワックスをかけることができた。女房どのの車と私の車、2台分だからけっこう時間がかかる。2台の車がピカピカになったのは夕方4時半前だった。ちなみに、今、私が乗っている車の車両番号は天使の誕生日からとった。

雨が上がっていたので「おくんち」の幟【のぼり】立ては予定通り行うことができる。車を洗い終え、汗びっしょりのTシャツ姿のまま、町内会の氏子総代宅を訪ね、お誘いし集会所へその準備に出かけた。

今年、町内会でリヤカーを購入した。子供会の資源回収などで役に立っている。幟一式をそれに積み込み、有線放送で協力を要請し、毎年、幟の組み立て作業をする場としてお借りしているSさんの駐車場へと向かった。

幟を組み立て、それを「おくだり」の行列が通る道の両側に並べる。その作業に毎年参加していただき、先頭に立っていただいていたお2人の姿が今年はない。お1人は病に倒れられ、現在リハビリに努めておられる。もうお1人方は鬼籍【きせき】に入られた。
その一方、新しい顔も見える。また、貴重な休日のひと時を割いたり、仕事の手を休めたり、あるいは用事を済ませ駆けつけられたりと町内会の仲間にたくさん寄っていただいた。
感慨にふけりながらみなさんと作業を進めた。

午後6時過ぎには幟をすべて沿道に取り付けることができた。
氏子総代さんと後片付けをした後、いったん帰宅し、準備をして国勢調査票の回収に再び受け持ち区域を歩いた。

一回りし、午後7時前帰宅する頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
シャワーを浴び、女房どのの手料理をいただきながらビールとハイボールを3杯いただくと、もうもたなかった。
昨夜は8時過ぎには就寝したらしい。今朝、女房どのが教えてくれた。
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