峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

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父性

2011年05月26日 | 父親と子

長女の絵理子さんが高校生になり寮生活を始めてから、折にふれ絵手紙を書いては出していた。ところが、その後、ご時勢から家族全員がケータイを持つようになり、順に有紀さん・くるみさんが高校生となり寮生活を送る頃には絵手紙はメールに取って代わった。

最近はそれに加えスカイプのテレビ電話を利用している。天使といつでもコミュニケーションがとれるようにと研二くん・絵理子さん夫婦が女房どのの誕生日祝にとwebカメラをプレゼントしてくれた。
その後、有紀さんもカメラを購入したことで3箇所それぞれの住まいから同時に会話ができるようになった。科学技術の進歩は留まるところを知らない。

ケータイやテレビ電話は絵手紙と比べると、はるかに手軽で便利である。ついついそちらに頼ることになり、絵手紙を書かなくなってしまって久しい。
絵手紙を出すまでには相応に手間隙がかかる。しかし、それゆえに、自ずと子供のことがあれこれ思われ、さまざまな微妙な感情が沸き起こった。それは、私の父性が育てられる一過程であったように思う。

「父性」を辞書で引くと「父親としての性質」とある。「性質」とはもって生まれたものだ。ちなみに「母性」を辞書で引いてみると「母親として、自分の子供を守り育てようとする本能的特質」とある。
つまり父性や母性は人間である以上、誰にでも生まれつき備わっているものということのようだが、本当にそうなのだろうか。

もし、辞書にあるように父性や母性が本来、人間に備わっているものだとすれば、幼児虐待は起こりえないことだ。「自分の子供を守り育てようとする本能的特質」を備えている親が、どうして自分の子供を死に至らしめたりするだろう。

父性や母性はもとからあるものではなく、子供と共に楽しく豊かに生きていくこにより生まれ育まれていくものだと考える。それは、手間隙かけ丁寧に作られる上質なワインのように、一定の期間を経て醸成されるのだろう。
すべて便利なことがよくないと言っているのではない。手間隙かける、かかることの大切さも心に留めておきたい。
私は、子供たちと女房どのによって本当の意味での父親にしてもらった。

街中で久しぶりに偶然会った塾生家族のことを書こうとして、前段が膨らんでしまった。

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