♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

安佐北区:(両延神社)奉斎殿

2011年08月24日 08時36分33秒 | 神社寺院等
ここ安佐南区亀山の両延神社・由来板にある1991年、
わたしは丁度宮島対岸の宮島口で仕事をしていて、朝早くから上空を報道のヘリコプターが飛んでいました。ニュースで、厳島神社の能舞台が倒壊した事を知った思い出があります。その後、塩害での長期の停電も記憶に残っています。
1991年の台風19号はひどい被害があった台風でした。ここ両延神社でも大きな被害を受けたようで、倒木を再生利用することで、この奉斎殿が建立されたことを知りましたので、撮影しこの頁を編集しました。

(両延神社)奉斎殿

広島ぶらり散歩「旧(安佐郡)可部町」編

8月24日曇り(お日様差す) 

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安佐北区:(両延神社)神木・松の跡

2011年08月23日 22時05分11秒 | 各種記念碑等
ここ両延神社社殿の周りをみている時にみた遺木でした。
腐れ防止用の笠木が取り付けられ注連縄が取りつけられていましたので、両延神社の御神木だったものが枯れたので、保存される事になったのだろうと思いました。
しかし、根際に石柱(刻まれた文字は読めませんでした)がありましたが、説明板もないようでしたので何の木かもわたしには分かりませんでした。
広島市亀山公民館の資料で松の根っこと云うことがわかりました。

(両延神社)神木・松の跡

広島ぶらり散歩「植物」編
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大竹市:(青木神社)報神恩・碑

2011年08月23日 08時10分55秒 | 各種記念碑等
ここ大竹青木神社鎮座紀念碑の根際に建立されているのがこの「報神恩」碑です。
碑面の「報神恩」をみた時わたしは、それとなく神がわたしたちに授ける恩に報いる事を記した碑だろうな~と思いました。
碑裏面をみますと、ここ青木神社の大修繕にあたって明治34年5月山陽鉄道によって開業されていたとはいえ、下関へも青木神社の改修の基金をもとめ行脚し、
下関にとどまらず、関門海峡を渡り九州・福岡県の門司・八幡へも基金を集めた当時の青木神社の氏子の方々の名を遺すために建てられた石碑でした。
交通事情も現代とは全く違がっていた当時、ここ大竹市(当時大竹町)の青木神社改修へお金を出そうという人々が、
北九州から広島・呉までいた事に、現代では失われつつある神への畏敬の念をわたしは思わずにはおられませんでした。

(青木神社)報神恩・碑

広島ぶらり散歩「大竹市」編

8月23日曇り、雨 

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大竹市:(青木神社創祀)記念碑

2011年08月22日 21時13分16秒 | 各種記念碑等
ここ青木神社の鎮座(由緒)を碑裏面に刻んである記念碑です。
普通の神社説明板の代わりになるというか、
これが本来のもので貴重な記念碑ですが、碑裏面を見るのに玉垣を乗り越えなければならなかったのはチト残念でした。
しかし考えるに、昔は境内が広くこの紀念碑も余裕がある処に建立されていたが、小瀬川の改修工事で境内がせまくなり、今のように狭苦しい処に移されたのかなと思ったりしました。

(青木神社創祀)紀念碑

広島ぶらり散歩「大竹市」編


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大竹市:(大竹)青木神社

2011年08月22日 08時44分09秒 | 神社寺院等
今回の大竹ぶらり散歩の計画をたてている時、広島県神社誌をみると、この青木神社の記載があり、立ち寄って参拝しようと思ったのです。
(山口県の)JR和木駅から大和橋を渡って小瀬川沿いに下流側にぶらり散歩しながら、(大竹本町)住吉神社を参拝し、長州之役跡碑をみて、ここ青木神社に立寄り参拝しました。
この青木神社は、1802年ここ青木新開の守護神として猿田彦神を勧請したのに始まるとありました。

(大竹)青木神社

広島ぶらり散歩「神社仏閣など」編

8月22日曇り 

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大竹市:長州の役戦跡・碑

2011年08月21日 21時01分14秒 | 各種記念碑等
(山口県の)JR和木駅から大和橋を渡って(広島県)大竹市に入り、広島新四国八十八ヶ所霊場第四番薬師寺に行くようにしていましたが、地図を見て、大和橋を渡ってすぐ小瀬川沿いを下っていくと青木神社があり、広島県神社誌に記述がありましたので、参拝しようと計画しました。
川沿いの道を下っていいてる時に出合ったのが大竹住吉神社で、参拝した後、すぐそこが青木神社であるところでみたのが、
この「長州之役戦跡・碑」でした。
碑文は、明治百年も経った時に建立されたこの碑に、長州軍に敗れた幕府軍(広島藩側)の無念さを短文で表すにはどういう表現が出来るかを考えたすえの文章のように、わたしは勝手に思いながら読みました。
長州征伐と当時の人は云っていたようですので、長州側が勝利し明治維新を成し遂げたことで長州の役と呼び名も穏やかになったのでしょうが。

長州之役戦跡・碑

広島ぶらり散歩「大竹市」編
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南区:(現・新来島宇品どっく専用船)第五こふじ

2011年08月21日 09時10分45秒 | 乗り物関連
南区の金輪島からの帰りの連絡船を待っている時に桟橋の処に入ってきたフェリーでした。
みると「第五こふじ」と船名が読めました。
このフェリーは宇品と似島の連絡船として活躍していたことを「ふるさと似島」に記述があり知ったのです。
この第五こふじは連絡船を引退した後、金輪船渠が引継ぎ、時代は移ろい、西武造船から新来島どっくへと所有者が変わっています。
わたしは連絡船に乗ってここ金輪島にきましたが、島でみた車はどうするのだろうと思っていた時でしたので、そうかフェリーだったのかとも思いました。

(新来島宇品どっく)第五こふじ

広島ぶらり散歩「乗り物」編

8月2日雨降り 

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南区:(金輪島連絡船)ライナ

2011年08月20日 21時49分47秒 | 乗り物関連
南区の金輪島原爆慰霊碑を訪ね頭を垂れることを主目的に金輪島に行きました。
いわゆる、宇品港桟橋ではなく、
市営桟橋から船が出ますので広電・海岸通電停で降りて桟橋に行きました。
土曜日でしたが10名余りの人が乗って出港、途中プリンスホテルの桟橋に立ち寄ろうとしましたが、待ち人がいませんでしたので、着岸せずに金輪島に向かいました。
その日の前後は丁度「ライナⅡ」が整備中で、
旧船のこの「ライナ」が運行していてそれに乗るという幸運?でしたので撮影しまた。

(金輪島連絡船)ライナ

広島ぶらり散歩「乗り物」編
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番外:わが家のパイナップル8月20日

2011年08月20日 16時10分14秒 | Pineapple栽培
きょうは雨で24℃、パイナップルもチト寒そうにしていました。
クラウンの部分が伸びたようですが、玉太りはまだまだ先なのかなと思いましたので、
今週は、実を中心から少し引いて撮影しました。

わが家の鉢物・パイナップル

裕の鉢物園芸
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南区:(金輪島・潮生延命)寿老人

2011年08月20日 08時50分30秒 | 神社寺院等
南区の金輪島原爆慰霊碑をみて島の南側に行ってみるかと思って、金輪島トンネルを過ぎて少し行ったところでみた石造2体と説明板でした。
原爆に関連して建立された像かもしれないと思い近づいて説明板をみました。「潮生延命さんの由緒」板でした。
読むと金輪島磯浜で貝堀をしていた時にみつけた石が寿老人のようでしたので、縁を感じ、御影石で造り祀ることにしたようなことが記述されていました。
わたしにはいまいちというかさっぱり建立者の事がわからぬままでの編集でしたので、ご存知の方はご教授お願いいたします。

(金輪島潮生延命)寿老人

広島ぶらり散歩「神社仏閣など」編

8月20日曇り、雨 

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南区:金輪島に残る防空壕

2011年08月19日 21時21分51秒 | 軍都広島関連等
今回は下船して、南区の金輪島の東側の道路を北に向かい、島西側に位置する金輪島原爆慰霊碑を訪ねる事にしました。
最初に防空壕をみて撮影したのは、新来島宇品どっく鉄鋼工場横で、旧・隧道へ行く道の所で「危険です!!立ちいらないでください」の標識がありましたので防空壕跡だなと思いました。
そこから金輪島東側道路を北に向かって歩きました。そこここで、大小の防空壕をみました。
元陸軍運輸部通称暁部隊金輪島工場が主に島の東側に位置していたことから防空壕が多くつくられたのだろうと思いました。

(南区・金輪島)防空壕跡

広島ぶらり散歩「軍都・廣島関連施設戦跡など」編
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南区:金輪島旧隧道

2011年08月19日 08時44分20秒 | 建物等
今回、南区宇品町の金輪島を訪ねた主目的は、原爆慰霊碑を訪ね頭を垂れることでしたが、事前に金輪島の事をNET検索している時に、この隧道を紹介された方が居られましたので、訪ねてみようと思ったのです。
民間人立ち入り禁止だったようですので、軍用のトンネルとして掘削されたのでしょう。
東側の入口の扉には鍵があり開けることはできませんでしたが、その横から容易に隧道に入る事が出来ましたので、入って撮影しました。
西側の入口は扉には鍵がありませんでしたので、扉を開けて撮影し、撮影後締めましたが立ち入ろうとすれば入れます。

(南区・金輪島)旧・隧道

広島ぶらり散歩「建物」編

8月19日曇り 




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南区:金輪島トンネル

2011年08月18日 21時24分59秒 | 建物等
今回金輪島を訪ねた主目的は、金輪島原爆慰霊碑を訪ね頭を垂れることでした。
金輪島(連絡船)桟橋を降りると正面に「金輪島原爆死没者慰霊碑200m先の(金輪島)トンネルを通る」と記した看板が建っています。
この金輪島トンネルが出来た事により、旧陸軍運輸部金輪島工場が位置していた島東側(造船所の社有地などに建立になるなどの調整問題等もあったのではと思いますが)に建立されずに、このトンネルを利用すれば容易に島西側に行けることから爆心地も遠く望めることから建立されたのだろうとわたしは思いましたが、
いま時よく聞く費用対効果となれば??だな~と思いましたが。

金輪島トンネル

広島ぶらり散歩「建物」編
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安佐北区:(両延神社)奉納絵馬・高野の仇討ち

2011年08月18日 09時11分18秒 | 雑関連
安佐北区亀山南の両延神社拝殿にかけてある絵馬に目がいきました。
その一枚が明治7年の絵馬でした。
江戸時代の戦の場面かなと思いましたが右下の人物ズボン(洋服)を着ているようでした。
題が読みとれましたが仇討ち、村上兄弟の仇討ち?と帰宅しました。
この両延神社の奉納絵馬から「高野の仇討ち」のことをわたしは、はじめて知り、
明治6年になって仇討の禁止令が出たという事を含めてこの絵馬から、日本の明治時代の歴史の一端を知ることが出来ました。

(両延神社)奉納絵馬・高野の仇討ち

広島ぶらり散歩「旧(安佐郡)可部町」編

8月18日曇り 

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安佐北区:末田重邨先生碑

2011年08月17日 21時19分57秒 | 各種記念碑等
2010年4月、安佐南区の可部・下の浜の明神社の境内で佐々木星峡先生寿碑の碑文に佐々木は末田の三亦舎に学び先生の代行を務めるほどになったとありましたので、
末田重邨の事をわたしは少し知りました。
今回、両延神社境内に「重邨先生末田君碑」建立されており、
碑文からここ両延神社の祠官の子として生まれた事を知りました。

重邨先生末田君碑

広島ぶらり散歩「旧(安佐郡)可部町」編
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