部屋の中を秋が通り過ぎていく。家のなかを掃除していってくれるようで、心地よい。心の中にも爽やかな秋風が吹く。留まらず、淀まずに気持ちを浄化していく。日々の暮らしの中には、喜びもあるが、不安や怒りといった感情がある。心の中に不安や憎しみというような感情が出てくるのは当然のこと。そのマイナスのものをいかに浄化していくかが大事なのだぁと思う。どんなフィルターがいいのだろうか。以前はその感情を引きずって生きていた。無駄なエネルギーだったと思う。不安は不安を呼び、怒りは怒りを呼び、憎しみは憎しみを呼ぶ。そしてその泥沼からはいでることができなくなる。何が私を変えたのかはわからない。マイナスを流していけるエネルギー。それは「愛」なのだろう。しっかり立つには背骨がいる。私の背骨はちょっと欠けてしまったけど、でも、今日という1日に生きていく力だけはあるようだ。
台風の被害がひどい。茨城の鬼怒川の氾濫の話は、母が子供の頃ひどかったと聞いたことがある。TVで見る洪水の光景は信じられないよう世界だった。そんな最中に名古屋へボランティアでシニアのサッカーの取材に日帰りで出かけた。大変なのによくやるね、なんでそんなに熱心にできるの? と聞かれる。3年前くらいまでは、もっもらしい理由があった。それをエネルギーに回していたと思う。今、そう聞かれても理由が出てこない。なんで自分はこんなことをしているのだろうと思う。以前は何事にも自分を動かしていく源となるものがあった。悲しいくらい何もない。「何もない、あっても人に伝えられない・・」キルケゴールだっただろうか。肩の力が抜けた と言えばいいのだが、芯のない人になってしまった気もする。年をとった、ということなのだろうか。何かのために走った日々が懐かしい。
台風の影響か雨が続く。腰痛で寝返りがうまく打てないのか、夜中に目が覚める。雨の音が聞こえる。とりとめもなく思いを巡らす。人は「あわれさ」とか「こっけいさ」を感じるかもしれない二人の食卓作り。飽きるかと思ったが、まだ続いている。続くことに私自身が不思議だった。朝晩、必ず食事の前に祈りを捧げるようになった。材料があまりないときでもなにか工夫して食卓を飾った。私の前に座るのは誰なのかもわからなかった。ただ危ないおばさんは目の前の相手に何かを語った。時に相手はびっくりするような答えを返した。私のなかの私が気がつかない部分。それはあまりにものんきな頑張らない自由な私だった。今週に日曜日のミサ。耳の聞こえない舌の回らない人に言った「エッファタ」(開け)というイエスの言葉。開けていく心がある。私は耳も聞こえず舌も回らなかったのではないか。本当の自分の心に。私の前に座るのは本当の私かもしれない。身体が解放されていくことは、心も解放されていくことかもしれない。二人分の食卓を用意するというおかしな時間だが、私は長い時間求めていたものの正体を見たような気がする。日常のなかで、心を語れる相手であり、語ってくれる相手だったのだと。それが私の家族の歪みだったのかもしれない。
台風の影響か雨が続く。腰痛で寝返りがうまく打てないのか、夜中に目が覚める。雨の音が聞こえる。とりとめもなく思いを巡らす。人は「あわれさ」とか「こっけいさ」を感じるかもしれない二人の食卓作り。飽きるかと思ったが、まだ続いている。続くことに私自身が不思議だった。朝晩、必ず食事の前に祈りを捧げるようになった。材料があまりないときでもなにか工夫して食卓を飾った。私の前に座るのは誰なのかもわからなかった。ただ危ないおばさんは目の前の相手に何かを語った。時に相手はびっくりするような答えを返した。私のなかの私が気がつかない部分。それはあまりにものんきな頑張らない自由な私だった。今週に日曜日のミサ。耳の聞こえない舌の回らない人に言った「エッファタ」(開け)というイエスの言葉。開けていく心がある。私は耳も聞こえず舌も回らなかったのではないか。本当の自分の心に。私の前に座るのは本当の私かもしれない。身体が解放されていくことは、心も解放されていくことかもしれない。二人分の食卓を用意するというおかしな時間だが、私は長い時間求めていたものの正体を見たような気がする。日常のなかで、心を語れる相手であり、語ってくれる相手だったのだと。それが私の家族の歪みだったのかもしれない。
台風の影響か雨が続く。腰痛で寝返りがうまく打てないのか、夜中に目が覚める。雨の音が聞こえる。とりとめもなく思いを巡らす。人は「あわれさ」とか「こっけいさ」を感じるかもしれない二人の食卓作り。飽きるかと思ったが、まだ続いている。続くことに私自身が不思議だった。朝晩、必ず食事の前に祈りを捧げるようになった。材料があまりないときでもなにか工夫して食卓を飾った。私の前に座るのは誰なのかもわからなかった。ただ危ないおばさんは目の前の相手に何かを語った。時に相手はびっくりするような答えを返した。私のなかの私が気がつかない部分。それはあまりにものんきな頑張らない自由な私だった。今週に日曜日のミサ。耳の聞こえない舌の回らない人に言った「エッファタ」(開け)というイエスの言葉。開けていく心がある。私は耳も聞こえず舌も回らなかったのではないか。本当の自分の心に。私の前に座るのは本当の私かもしれない。身体が解放されていくことは、心も解放されていくことかもしれない。二人分の食卓を用意するというおかしな時間だが、私は長い時間求めていたものの正体を見たような気がする。日常のなかで、心を語れる相手であり、語ってくれる相手だったのだと。それが私の家族の歪みだったのかもしれない。