太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

情報難民、異世界を知る

2020-06-04 11:29:52 | 本とか
読む本がなくなってワナワナしていたので、BOOKOFFがリオープンするやいなや、本を買いに行った。
少しずつ、日本の本のスペースが狭くなっていく。
その中から、読みたい本を探すとなると、自然と新規開拓をすることになる。

今回開拓したのは、朝井リョウの『何者』。
読み始めてすぐ、『今、世の中はこうなっているのか!』と、新鮮に驚いた。


6人の大学生が、就職活動をするところから話が始まる。
6人が誰かのアパートの部屋に集まって、飲んだり食べたりしている。
そうしながら、それぞれがTwitterで好きなことを発信していて、
それを6人の中の誰かがチェックしている。

これって、普通のこと?
今、目の前で顔を合わせて喋っているのと同時に、こっそり何かをどこかに向けて発信する。
発信されたものをチェックしながら、表面は何もなかったようにおしゃべりが続く。

Twitterという名前は知っているが、いったいそれが何なのかは知らない。
そこで私は調べてみた。
TwitterをWikipediaで調べる人は珍しいと知りつつ。


Twitterにログインした際、自分専用のページ「ホーム」の「タイムライン」には自分の投稿とあらかじめ「フォロー」したユーザーの投稿が時系列順に表示され、各ユーザーが自分の近況や感じたことなどを投稿し、時に他のユーザーがそれに対して話しかけたりすることで、メールやIMに比べて「ゆるい」コミュニケーションが生まれる。一方、「キーワード検索」をすると「キーワードを含んだ投稿」のタイムラインが生成され、「キーワードを含んだ投稿」でつながったグループが自然発生する。同じキーワードを含んだ投稿をすれば、グループに参加することもできる。「トレンド」により、いま多く投稿されている「キーワード」を知ることができる。トレンドの範囲を国別に、または主要都市別に絞り込む機能もある 


なるほど・・・
って、わからない単語がいくつかあるけど、要するに140文字のプチ・ブログみたいなものか?(違うか・・)
小説の中で、メールアドレスからその人のTwitterのアカウントを検索することができる、というくだりがある。
アカウントを複数作って、使い分けている人もいるという。
小説では、仲間の前では、就職活動する輩を小馬鹿にしている人が、実はひそかに就職活動をしていて、
別のアカウントで、その就職活動について発信したりしているのだ。


誰が、どんなことを考えているのか、どんな行動をとっているのか、
その人と話すことなく知ることができる。
それはたしかに興味深いことだけれど、こういうTwitterという形になると、どこか違和感があるのは私だけか。


その違和感を説明してくれた人が、小説内にいた。

主人公の男子学生は、フェイスブックやTwitterが流行って、みんなが限られた言葉で会話するようになり、
だからこそどんな言葉を使うか大切にしなければいけない、と思っている。
仲間内の二人のTwitterの内容から、その二人をジャッジした主人公に対して
フェイスブックもTwitterもやらない先輩が言うのだ。


「簡潔に自分を表現しなくちゃいけないんだったら、選ばれなかった言葉のほうが圧倒的に多いわけだろ。
だから選ばれなかった言葉のほうがきっと、よっぽどその人のことを表してる」

「たった140文字が重なっただけで、あいつらを束ねて片づけようとするなよ。
ほんの少しの言葉の向こうにいる人間そのものを、想像してあげろよ、もっと」



顔も知らないどこかの誰か達と、ゆるく広く繋がりたい、と思うのはそれでいいと思う。
けれど、よく知る人のTwitterだけで、その人の別の一面を知ったようになって、
そのことについて語ることもなく、勝手に判断するのはやっぱり何か違うような気がしてしまうのだ。



フェイスブックもTwitterもインスタグラムも、まったく興味がない私が
ブログは細々続けていられるのは、自分を表現する場は私が創り出すアートにも似ていることと、
つたないそれを誰かがキャッチしてくれる喜びがあるからだと思う。
だから、ゆるく広く繋がりたいとは思わなくても、発信する人の気持ちはとてもよくわかる。


作家の朝井リョウ氏は平成生まれだそうである。
作家の世代も、どんどん新しくなってゆくのだな。
生涯、情報難民ではあっても、こうして知らない世界があることを知るのはおもしろいものである。


「何者」 朝井リョウ   新潮文庫

あとで知ったけれど、この作品は直木賞受賞作だそうだ









「この世の春」

2020-06-01 11:08:17 | 本とか
宮部みゆき氏は、好きな作家の一人だ。
「この世の春 (上・中・下巻)」は作家生活30周年記念作だという。
令和元年に文庫化された本を、ハワイで買えるはずもなく
むろん12月に日本で買ってきたのだ。

宮部氏の作品は、ほぼ読んでいると思う。
現代ものより、時代もののほうが好きな作品が多い。
現代ものの中では「火車」と「ソロモンの偽証」が好きで、
時代ものでは迷わず「この世の春」を挙げるだろう。

北見藩(架空)の主君、重興の、突然の押込(主君の座を追われること)。
子どもの頃より、多重人格のように人格が入れ替わる重興の秘密を
真心をもって探り、重興を癒そうと奔走する人達。
秘密が明るみになってゆくにつれ、それは思いもかけず根深く、巨大な闇であることが明らかになる。

目に見えない、不思議なもの。
呪いとか魔術。
人の、想い。真摯な気持ち。勇気とか覚悟。

宮部氏の作品の多くにみられる、そういったものたちが、
この作品の中で、絶妙なバランスと、美しさをもって輝いている。
「荒神」は、スプラッター映画を観ているような残忍な場面が多くて、
ストーリー以前に苦手だと思ってしまうのだけれど、その点も大丈夫。
読後が、すがすがしい。
登場人物が、それぞれに生き生きしていて、どの人物もしっかりと光を放っている。

手元において、再度読み返したい作品だ。
ちなみに、文庫本のカバーの装画が、とてもすてき。
私が好きな日本画家の東山魁夷を思わせる。


「この世の春」  新潮文庫










使える英会話

2020-04-03 11:40:25 | 本とか
こう見えても、私だって英語力をつけたいと努力していたことはある。
今の夫と結婚したとき、英語が通じなくてどれだけ毎日がおもしろいことになっていたか、今では笑い話である。
クリームシチューを作ると言ったら、「ブレッドロール」があるといいね、という。
私が小さい丸いパンを買ってくると、「これブレッドロールにできる?」という。
夫が言ったのは、パンに穴をあけてそこにシチューを詰める、ということで
ブレッドロールではなく、ホールのあるブレッドということだった。
こんなのがほぼ毎日。

英語を勉強したのは高校3年まで。
それから再婚するまでの24年間、まさか外人と結婚して外国に住むなど夢にも思わなかったから、
1度たりとも英語を再勉強したことはなかった。
相手が夫だけなら笑って済ませられることも、夫の家族や友人となるとそうもいかない。
そこで私はさまざまな英語を勉強する本を買い、最初は意欲に燃え、
すぐに飽きてほかの本を買い、ということを繰り返し、英語本ジプシーとなったのである。

そんな私が出会った本の中で、すごくお勧めの本がある。



いわゆる普通の英文法の本とは違う。
丸暗記も構文もいらない。なぜそれはそうなるのかを、くだけた感じで説明していて
英語には未来形などは存在しないんだよとまで言う。
受験勉強には向かないかもしれないが、「話したい人」にはわかりやすい。
ハワイに住み始めて、「話さねばならなく」なった私の救世主。

昨日、私の本棚を整理していたら、奥からこれが出てきた。
生活の中で英語を使い始めたら、文法なんかどこかに行ってしまう。
文法を考えていたら私は話せなくなる。
誰かがしゃべっているのを真似て話していることも多いし、英文を作る前に話すので、
配置が変な英語になったりもする。
それでもなんとか、英語だらけの生活を9年続けてこれた。
私の英語は、変かもしれないけどなんとか通じる英語なのだと思う。

久々にこれらの本を読みなおしたら、ああそうだった!ということがたくさんある。
たとえば、Canは潜在的な能力の意味で使う。
潜在的能力とは、やろうと思えばできる、という意味であり
「私はこれができる」にはCanだけれど、
「その飛行機は深い霧の中でようやく着陸できた」にはBe able toでないとおかしい。

その話を夫にしたら
「そうそう、そうだよね。深く考えたらまったくそれが正しいよ。僕はCanって使うけど」
そうなのだ。
夫だけじゃない、ほとんどの人がそうだろう。
私も、なんでもかんでもCanだ。
いつだったか、関係代名詞のWhoとかWhomとかWhichについて質問したときも
「そんなの、みーんなThatでいいんだよ。てかThatもいらないよ、もう」
かくして私は文法から自由になり、通じてしまうがゆえに、英語本とも疎遠になってしまったのだ。(という言い訳)
ただ、単語だけは数多く知っているに越したことはない、これは言える。

実際のところ、「おや?」という英語を話している人は意外と多い。
ハワイは雑多な人種が集まっているのでなおさらだ。
映画を観ていても、「She don't like that」とか平気で言う。三人称ならDoseだろう。

単語の本も出てきた。
毎日時間はたっぷりあることだし、
この機会に英語をブラッシュアップするか、などと殊勝にも思っているが
いつまで続くか怪しいものである。




ですわ、ますわの大安売り

2019-11-27 19:50:26 | 本とか
山崎豊子氏の「女の勲章」を読んでいる。


いよいよ読む本の在庫がなくなってきて、古本屋に行ったはいいが
食指の動く本が見つからない。
日本の古本屋とは違って、本の絶対数が少ないのだから仕方がない。
それでもいろんな作家の本を開拓して、選択肢はだいぶ広がってきてはいるのだ。
山崎豊子氏は、「不毛地帯」や「大地の子」など、
女性作家とは思えない、骨太の社会小説を書いている。
だからこの「女の勲章」もそういう小説なのだろうと思い、手に取ったのだった。


しかし、社会小説というよりは、平日の昼すぎにやっているメロドラマのような内容で、メロドラマが苦手な私は困惑している。
しかも、これが書かれたのは昭和36年(1961年)
さすがの私も、まだ生まれてはいない。
話の筋は、大阪の裕福な商家に育った女性が、デザイナーとなって
洋裁学校を経営するという、細腕繁盛記的な話だ。
メロドラマなストーリーもともかく、
小説に出てくる女性たちの話し方が、いちいち不自然で、気になって仕方がない。

たとえば、こうだ。
「いいえ、別にそんなものはございませんわ。自分の選んだ色と柄を素材にして
最も美しい布地の彫刻を造りたいという、それだけがデザイナーの大きな要素ですわ
「大阪の古い衣服の伝統の中に育ち、それを身につけた人にしか創りだせないものですわ
つまり江戸流の粋でなく、上方につうじる味ですわ、あれは大庭さんの環境と人間を物語っていますわ
「あら、それならあなたのほうが私よりずっと、私についてお詳しくご存じでいらっしゃいますわ


ですわ、とか、ますわ、とか、昭和36年では一般的だったんだろうか?
当時、すでに姉を生んでいた母は二十代だったけれど、母がそんな話し方をしていたのを聞いたことがない。
キャリアウーマンの(職業婦人といったらしい)、お高くとまったような人に限ってなのだろうか。
果たしてそういう人たちは、実際にですわ、ますわと話していたんだろうか。
それとも、小説や映画の世界だけの話し方なんだろうか。


ただ、興味深いこともある。

女は30歳まではそれぞれ年相応にしか見えないが、30を超えると個人の持ち分だけが年齢になって現れる

というくだりがある。
小説が書かれた60年前には、そうだったのだろう。
今は、15歳ぐらい年齢が上がっているような気がする。
45歳ぐらいまでは年相応でいられても、45を過ぎると、大きく個人差が出てくる。



おきまりのメロドラマではあるが、(プレイボーイの事務長が、院長含め以下職員と関係を持ちまくる)厚さ2センチあまり、650ページに及ぶ長編で、
文字の大きさは最近の文庫の文字の半分しかない。
あまり早く読み終えると、また本を探さねばならなくなるので、
話はできるだけ長く、本は厚いほうがいい私は、ですわ、ますわのメロドラマを
困惑しつつも根気強く読み続けている。







「劇場」

2019-09-28 08:05:56 | 本とか
又吉直樹氏の「劇場」を読んでいる。
氏が「火花」で芥川賞をとったとき、ハワイの本屋で働いていたから
名前も知っていたし、その本も表紙は見たことがあったけれど、
中身を読んだことはなかった。
又吉氏はなんとかというお笑いの芸人さんであるという。
彼の芸人としての姿を見たことはないが、
私の中の、芸能人が書いた本を避ける傾向が、本を手に取らなかった理由だと思う。

先日、日本に行ったときに、空港の本屋で、ふと「劇場」を買った。
古い本ならまだしも、新刊などハワイでは買えないのだし、
食わず嫌いをやめて、新規開拓もしてみたかった。

なんというのだろう。
おもしろいかおもしろくないか、わからない。
重いローラーを、ゆっくりゆっくり引っ張ってゆく、そんな感じ。
きっと誰の中にもある、人には隠しておきたい、
できれば自分も気が付かないふりをしておきたい部分を、繰り返し見せられているような、
倉本聰氏の作品に感じるのと、似たようなもの。
等身大すぎて、ときにいたたまれなくなる。

かといって、読むのをやめないのだから不思議。

本の帯に、本が映画化(ドラマ化だったかも?)すると書いてあった。
映画は、みないだろうなあ。
これは、彼の文章があるから、いいのだと思う。