太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

10年後のわたし

2023-02-28 09:26:06 | 日記
すてきに年を重ねているな、と思う人がいる。

若い頃は、どんなふうに年をとりたいか、などということは考えもしなかった。
自分が年寄りになるなんて、想像もつかないほど遥か先のことに思えた。
どんな人になりたいのか、考えるようになったのはここ数年のことだ。

ごく最近、私の理想が少しずつ形になってきた。

懐が深いこと。
笑顔でいること。
ゆっくり暮らすこと。
遊び心があること。

笑顔でいるのも、ゆっくり暮らすのも、遊び心も、なんとか今の私から捻りだせそうに思うけれど、懐の深さだけはてんでダメ。
私がすてきだと思う人たちは、懐が深い。
心の層が厚いというのか、余裕があり、人を責めず、簡単に傷つかない。
私はその逆で、余裕がなく、人を責め、簡単に傷つく。
これが私、と開き直るにはまだ早い。
日々の努力で、私はまだ成長できると信じたい。

ちょっとカチンとくるメールを受け取った。
すぐには返信せずに、カチンとくるその内訳を探ってみる。
憧れのあの人だったら、どうするだろうと想像してみる。
相手を責めたい気持ちを、眺めてみる。
そしてまだ、返信しあぐねている。


10年後、私は懐が深いおばさん(おばあさんか?)になれているだろうか。
いつも笑顔で、懐が深くて、お茶目で、なんだかいつも楽しそうなおばさんに。
道のりは遠いけれど、日々精進あるのみである。







手放す

2023-02-25 15:06:16 | 絵とか、いろいろ
絵を売り始めた頃、オリジナル作品を手放すことに抵抗があった。
100時間以上もかけて作る過程で、作品に対して愛着がわいてしまう。
しかし、少しずつ、その気持ちを乗り越えて手放してきた。
絵の具を使った絵ならば、同じような作品を再び作ることができるかもしれないが、染めた紙で作るコラージュは、同じ紙は2枚とてないので、似たようなものはできても、同じものは2度と作れない。
だから、これを手放したらもう二度と会えない、などと感傷的になってしまうのだ。

ありがたいことに、ギャラリーに置けば、誰かが買ってくださる。
家で飾る場所にも限りはあり、殆どは屋根裏で寝かせてあるだけ。
そう思って、いくつも手放してきたのだが、それでもどうしても残しておきたいものが、いくつかある。

先日、そのうちの一つを欲しい、というお客様がいるとギャラリーから連絡があった。
少し逡巡したあと、父のアトリエが頭に浮かび、さらにそれが私の好きなラティーシャのお客様だったこともあり、売る決心をした。


父が亡くなったあと、油絵のキャンバスで埋め尽くされたアトリエを見て、姉と呆然とした。
父はアマチュアの油絵画家で、作品を売るのはチャリティの展覧会のみだった。
60年も絵を描いていたのだから、その数は膨大なもの。
それを見て、私はしみじみ思ったのだ。
いくら私にとって思い入れがあっても、その私が死んだらただの絵。
だから、潔く手放していこう、と。

今回売ることにしたのは、うちの近所にあるハイク ガーデン。

ハレイワジョーズというレストランの席から眺めるこの景色が大好きで、
ふと思い立って作ってみた。


手放したくないからと溜め込んで、いつかゴミになってしまうよりも、
欲しいと思ってくれる人の家で可愛がってもらえたらそのほうがいい。
この作品はなくなっても、また新たに好きな作品を創ればいいのだ。
今朝、ギャラリーに作品を置いてきた。
娘をオヨメに出す親の気持ちに、これは似たところがあるのかな。









それはもうピザじゃない

2023-02-22 07:48:28 | 食べ物とか
私がそれほどピザが好きというわけじゃないのは、ピザのない子供時代を過ごしたのと関係あるだろうか。
なにしろ、初めてピザを食べたのは幼稚園時代に母と通っていた英語教室で、熱くてとろとろのチーズに私も母も驚いた。
それは美味しかったけれど、じゃあ家でもピザを食べましょう、ということにはならない時代だった。

大人になり、イタリアンレストランも増えて、普通にピザを食べるようになった。
それでも、私にとってピザは食事のメインというよりは前菜的なもので、何人かで1枚頼んで、一切れ食べれば満足する。
だから義両親が、今夜は軽くピザにしましょう、なんて言うのを聞くとアメリカ人なのだなあと思う。
ハワイではピザはハンバーガーに並んで日常食だ。
スーパーの冷凍ピザのクオリティも高いし、種類もものすごく多い。
テイクアウトのピザの大きさが桁外れ。
時々マネージャーがピザを差し入れしてくれるのだが、50センチ四方ぐらいの箱に入ったピザを見ただけで(しかもそれが3箱ぐらい)、私などは胸がいっぱいになってしまう。
12等分に切り分けても、一切れは小さいサイズのピザ1枚はあろう。
同僚たちは3時頃におやつとしてそれをぺろりと平らげてしまう。



前置きが長くなったが、今日の本題。

ピザのチェーン店のコマーシャルで、クラスト無しのピザ、というのをやっていた。
つまり、ピザの具だけのメニュー、ていうわけ。
小麦粉なしのお好み焼きみたいなもんか(違)。
ペペロニとかベーコンとかマッシュルームなんかをトマトソースで和えてチーズを加えたもの?
小麦粉を排除している、うちの夫のような人にはいいけれど、それって、もうピザとはいえないんじゃないか。
いやー、おもしろいこと思いつくなあ、とは思うけど、果たして需要はいかほどか。



マカプウ岬

2023-02-20 13:58:24 | ハワイの自然
シアトルから、甥1が来ている。
天気予報によれば、滞在している間中ずっと雨だったのだが、二日目と三日目は青空が広がった。
これを逃してはなるまいと、マカプウ岬にハイキングに出かけた。

以前は時々、満月の日を選んで登ったものだったけれど、ここ数年は足が遠のいていた。
私たちが行かない間に、トレイルがきれいに舗装されていた。
トレイルといっても、ビーチサンダルでも行ける気楽なコースで、いつも人でにぎわっている。



登り始めてすぐにこんな景色が見えてくる。右端の画面からはみ出たところにダイヤモンドヘッドの裏側が見える。
ビーチサンダルでいけるとはいっても、結構な登坂で、たいした日陰もないのでひたすら暑い。
夫と私だけなら早朝か夕方に行くけれど、この日私たちが行ったのは10時近くで、日中で1番暑くなるとき。


とても写真には写らないが、クジラが潮を吹くのを何度も見た。
大きな潮の横で、小さな潮が吹くのは赤ちゃんクジラがいるから。
所々にクジラの生態を記した看板や、双眼鏡が設置してある。


頂上の手前に、灯台が見えてくる。
頂上に近い場所から見た灯台。
甥1、義父、夫

右下に何か白い波が見える。

確かに見える。

3本白い波の線が。

恒例の、カヌーでカイルアからモロカイ島まで行って帰ってくるレースをやっていた。
白い波はカヌーの選手たちを先導するボートだった。

豆粒のようなカヌーたち。
何年か前、マウイに住む夫の友人がこのレースに出て、モロカイ島から戻ってきたところを夫が拾って、その足で空港に飛び、ギリギリでマウイ島に戻る飛行機に乗れたことがあった。全身ほぼびしょ濡れのまま・・・


頂上には展望台ができていた。

片道2キロちょっとじゃないかと思う。
私たちが下りてくるときも、これから登る人たちとひっきりなしにすれ違う。
自転車(ツーリング用のね)で行くツワモノもいた。
出かけるときは、帽子と飲み物を忘れずに。それと、トイレはないので済ませておくことをお勧め。
このあと、カイルアのアイランドスノーでかき氷を食べた。
暑いトレッキングのあとのかき氷の、その美味しかったこといったら・・・・!





亡くなった両親からの伝言

2023-02-19 08:02:01 | 不思議なはなし
両親の夢を見た。
母は時々夢にみたが、父が出てきたのは初めてだ。
そして、今までの夢では母は生きている設定だったけれど、この夢では初めて両親は既に他界していることを認識していた。


ホテルのパーティ用の部屋のようなところに、たくさんの人が集まって歓談している。
私が建物に入っていくと、お気に入りだった光沢のあるグレーのスーツを着た父が、楽しそうに人々の中を歩き回っていて、母は受付に他の人と座っていた。
母の元に行き、
「お父さん、いるね。ほら、グレーのスーツ着て」
と言うと、
「ああ、あのスーツ好きだよね。せっかちに歩いて、まぁ、人の世話やいちゃって」
と言って笑った。
この建物のどこかに姉と妹もいるはずなので、私は走って行って、彼女らを探し、
「お父さんとお母さん、いるよ!!」
姉と妹は同じように
「えーーーーーーッ!!」
と驚いていた。

私は母と、飲み物を買い(花のおしべのようなものが入った不思議な飲み物で、代金は小さな紙きれで払う)、あいていたテーブルに座った。
そして私は疑問に思っていたことを聞いた。

「お母さん、アッチで何をしているの?」

「アッチ?」

「そう、アッチ」

母はちょっと困ったように笑って言った。

「んー・・・・もっといろいろなものを持っていけばよかったかなぁ」

「なに?持っていったものしか使えないの?」

「そう」

「だって何ひとつ持っていけないじゃん?」

ちょうどそこに父がせかせかと合流し、母の答えは聞けなかった。父は、

「電話が鳴ってるのに誰もとらなくて困ったよー。俺がとるとうまく掴めなくて落としちゃうしさぁ」

と言って笑った。



ここで猫が鳴いて起こされて、夢はおしまい。
夜中だったが、忘れないうちに姉妹にLINEを送った。
妹が、亡くなった人が言ったことはメッセージなんだってよ、と言ったけれど、この夢の何がどうメッセージなのかわからなかった。

翌日、心理カウンセラーである友人にこの夢の話をした。

「そう、何ひとつ持っていけないけど、経験は持っていけるよね。
1日、1日を楽しく過ごして、たくさん幸せな経験を集めて生きてね、ということなんじゃないの?」

父の電話の話は?

「お父さんはいろいろメッセージ送ってるのに、なかなかそれを受け止めてくれないって思ってるんじゃないかなあ。いつも近くで見ているよっていうことだよ」

それを聞いたら、泣けてきた。
私の両親を知る友人も、
「私も泣けたー・・・」
と言った。


お父さん、お母さん、ありがとう。