マイクに出会うまで、私は芸術を仕事にしようとは思っていなかった。
むしろ、好きなことは趣味のままのほうがいいと思っていた。
コラージュのメンターであるスーザンに、作品をギャラリーに持ち込んでみたらと勧められても、断られるのが怖くて聞き流していた。
マイクのおかげで、作品をプリントして売るようになり、彼が間に立ってくれたおかげで、ギャラリーに飛び込みでなく持ち込めるようになり、ラティーシャに出会って、オリジナルもたくさん置かせてもらえるようになった。
そうしてかれこれ10年以上も、作品を創り続け、売り続けている。
次の作品のアイデアに詰まった時、昔の作品をアレンジすることがある。
好きな題材というのは、何度でも作ってみたくなる。
コラージュは染めた紙を選んで貼ってゆくため、筆で描く絵とは違って、たとえ同じ構図で作ったとしても、けして同じものはできない。まったく同じ紙は存在しないからだ。
昔の作品のほとんどは、既に売れてしまっていて、手元には数えるほどしか残っていない。
それらを出してきて、眺めるとき、私は私が失ったものに気づく。
作品を売り始める前に創ったものには、勢いがある。
自由で、思い切りがよく、元気なエネルギーがある。
それは子供たちが描く絵に似ている。彼らは何者にもなろうとしていない、そのまんまの自分を、そのまんま表現する。
だから突拍子もないものであっても、そこには素晴らしい勢いがあって、見る人の目を引き付ける。
たとえば、これは12年前の作品。
今、アンスリウムを題材にして創ったら、こんなふうにはならないと思う。
もっとスマートで、おさまりよく創るだろう。
そして、これは正真正銘、作品第1号。
目を覆いたくなるような、稚拙な出来だけれど、なんともいえないおおらかさがある。
この10年余の間に、技術的には大きな進歩をして、昔よりも格段に「上手な」ものを創ることができる。
けれど、確実に失ったものがある。
私が私だけのために創っていたのが、今は、売れるものを創っている。
それが原因だと思う。
もちろん、創りたくないものは創れないが、そこには必ず「売れるもの」という条件がつく。
仕事にしている以上、それは当然なのだろうけれど、技術を得た代わりに失ったものについて思うとき、呆然となる。
美大時代の友人で、夫婦で焼き物を生業にしている人がいる。
彼女があるとき、言った。
「好きで仕事にしたけど、生活していくとなるとなかなか好きなものだけ作るわけにはいかないよね・・・」
当時、彼らは紅茶会社から依頼された、点数を集めるともらえるオリジナルカップか何かを大量に作っていた。
自分の好きなものはまた別に作ればいいんじゃない、なんてわかったようなことを言ったような覚えがあるが、私は本当に何もわかっちゃいなかった。
私が私のためだけに創っていた、あの私に戻ることはできるんだろうか。
作品第1号を、寝室の壁に飾った。
かき氷みたいなプロテア、目玉焼きみたいなピンクッション、まるで子供の作品のような第1号を見ながら、私は私が取り戻したいものについて思うのである。