いつから私は姉のことを「おねえちゃん」と呼ばなくなっただろう。
気がつくと私は、姉の名前を短縮して「ちゃん」をつけて呼んでいた。
姉とは4歳離れている。
子供の頃は、二段ベッドのどちらに寝るか、といったようなことで喧嘩をした。
身体が弱かった姉に母はかかりきりのことが多く、私はいつも祖母と留守番していた。
いつも私の前を歩いていた姉と対等になったのは、私が社会人になってからだ。
そこに、私と5歳違いの妹も加わって、私たちは親友のようになった。
なかなか嫁にいかない娘に焦れた母に頼まれて、三人で出雲大社に行った。
そのあと、長崎のオランダ村にも出かけりした。
私たちは、顔も性格もまったく違う。
姉はきっちり四角で、私はスライム、妹は角が丸くて柔らかい四角。
四角に収まりきれない私を姉は持て余し、融通がきかない姉を私は理解できない。
それをくすくす眺めているのが妹。
姉に言われたことで、忘れられないことがいくつかある。
私が高校生のとき、祖母が入信していた宗教の本部に祖母のおつかいで何回か
行っているうちに、
私が入信しかけたことがあった。
私が宗教にのめりこむことを恐れた母はひどく怒り、玄関先で母ともみ合いになった。
東京で働いていた姉が帰省しているときで、
姉は私と母の間に入って、母に言ったのだ。
「シロがそうしたいと言うなら、それが正しいんだと思うよ、私は」
反発しあうことのほうが多かったのに、そう言われて驚いた。
そのすぐあと、急激に私は冷めて宗教には見向きもしなくなった。
私が離婚すると決めて別居していたとき、姉が手紙をくれた。
「誰かと生きてゆくのに1番大切なことは、理解しあえることじゃないと思います。
たとえ喧嘩になっても、相手をわかりたいと思う、相手にわかってもらいたいと思う、そのひたむきな気持ちがあれば大丈夫で、それが大切なのだと思います。」
それはまさに、私と相手に欠けていたもので、
なぜこの結婚が、こんなにみじめで虚しいものだったのかがわかった。
けれど、もうそれを同じ相手とやり直すには、遅すぎた。
姉は常に、自分が正しいタダシ子さん、そんなふうに思うこともあった。
でも、みんな、自分が正しいタダシ子さんなのではないか。
誰もおのれの正しさのスケールで、違う正しさを測りきれやしない。
違う正しさがあるから、自分の正しさの輪郭が見えてくる。
姉が大病をして、姉を失うかもしれない境地に立ってみて初めて、
姉が姉の正しさを持って、存在してくれていることがどれだけ私の支えになっていたかを思い知る。
姉を失うことは、親を見送ることよりも、もっと重いことかもしれなかった。
姉は今、元気に生きている。
私がスピリチュアルにハマっていた頃、スピと屁理屈でこねくり回した長いメールを読んだ姉が、
「私には難しいことはよくわかんないけど、シロちゃんが幸せならそれでいいや」
という返信をよこした。
わからなくていいんだ。
わかろうとしたんだから、わからなくてもいい。
私は相変わらず、姉の四角四面が理解できず、
姉は私のグニョグニョ加減を理解できないでいるだろう。
しかし、私にはない四角四面さでもって姉がいてくれるから、
私は安心してグニョグニョしていられるのだと思う。