太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

バラエティ番組

2017-09-29 07:23:10 | 日記
久しぶりに日本のバラエティ番組をみた。

年に1度は日本に行くが、実家では父がNHKしか見ないし、

日本に住んでいた時も、今の夫と住むようになってからはそういう番組はほとんど見なかったから、

もしかしたら、ちゃんとみたのは10年近くぶりになるかもしれない。

日本の番組を放送するチャンネルで、主婦がダイエットに挑戦する企画をやっていた。

ハワイで放送する番組は、平気で20年前ぐらいのものだったりすることがあるが

これはそれほど古くもなさそうだ。

二十歳の主婦が、高校の同窓会までにスリムジーンズを履けるまでに痩せるというもので

「美尻」のスペシャリストという人の(美尻という言葉があったなんて・・)指導のもとに

食事と運動でみごとにジーンズを履いて同窓会に行く。

その間には、夫との喧嘩とか、仲直りとかいろいろドラマがあって、つい見てしまったのだけれど、

興味深かったのは、内容よりもむしろ番組構成のほうだった。



スタジオには、7人から8人の芸能人が座っているが、彼らは何をするでもない。

ダイエットのドキュメントを紹介する合間、合間にカメラがスタジオにいる芸能人の顔を映すと

ドキュメントの内容に驚いたり感動した顔を見せる。

そしてカメラが完全にスタジオに戻ると、彼らは口々に

「信じられないー」とか「これはキツイわー」とかいった感想を言い合う。

その7人から8人の芸能人たちが、なんのためにそこにいるのか最後までわからないまま番組は終わった。



確かに私がよくテレビをみていた頃も、こういう形のバラエティ番組はあった。

そのときは別にそれを不思議に思わなかったけれど、改めて番組をみると、新鮮な疑問がわいてくる。

ドキュメントだけを放送すれば済むことなのに、どうして余計なギャラを払ってまで芸能人を並べるのだろうか。

彼らがいることのメリットはなんだろうか。



アメリカの番組はどうなっているかといえば、感想を言うだけの芸能人が並んでいるのは見たことがない。

スタジオに何人かを並べるときは、彼らと何かについて話をする対談である。

そのかわりに、スタジオに一般の人たちがたくさん座っていることはある。

カメラが切り替わる瞬間に一般の人たちの顔が映って、笑って拍手をしていたりする。

コメディアンというのは、一人で1時間以上もステージに立ってしゃべりまくって笑わせる人達であり、

自分たちのプライバシーなどを「ネタ」にして、人に笑われているのを見せることで笑わせるというのとは違う。

とはいえ、見るもばかばかしいような、えげつない番組ももちろんある。




芸能人を並べておく番組構成は、昔はなかった。

思うに、漫才ブームがあり、そこから出た若手の漫才師たちが「お笑い」というカテゴリーをつくり

「お笑い芸人」と呼ばれる人たちが、もはや漫才ではなく、画面の中でただおもしろいことを言ったり、

おもしろいことをやったりして、顔が売れてくるとそのうち番組のMCをやったり、ドラマや映画に出たり、

彼らは「タレント」とよばれる人たちになってゆく。

そこで、女優でも歌手でもモデルでもない不思議な女の子達も「タレント」になって、花を添える。

それが今に至っているのではあるまいか。

外からみると、日本のテレビも興味深い。









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ぐだぐだがとまらない

2017-09-28 08:30:43 | 日記
朝、夫のお弁当をランチバッグに入れて、ドレッシングの入った容器をその上に置いて

蓋を閉めて、フォークを入れ忘れたので蓋を開けたら、ランチバッグの中は油まみれだった。

私はドレッシングの容器に蓋をしなかったらしい。

全部取り出して、バッグの中もみんな洗う羽目になった。



キッチンの窓から外を見ると、しゅんしゅんという音がする。

朝4時で真っ暗なので、懐中電灯を持って庭に出ると、なぜかスプリンクラーがまわっている。

昨日帰宅したあと、1時間ぐらいと思ってつけたスプリンクラーを止め忘れ、一晩中まわっていたのだ。

夜は雨が降ったので、雨の音でスプリンクラーがついているのに気づかなかった。

雨が降っているのにスプリンクラー・・・・



スプリンクラーを止めて、家に入ってコーヒーを淹れた。

グラインダーに豆をいれ、がーッと挽いてから蓋を取るのだが、蓋を取るタイミングが少し早かった。

刃が完全に止まりきれていないうちに蓋をとったから、コーヒーが散乱した。

毎朝やっているのに、なぜこうなる。

飛び散ったコーヒーを掃除し、改めてコーヒーを淹れた。

こんなときはゆっくりコーヒーを飲んで落ち着こう。

音楽をかけ、コーヒーを飲んで深呼吸。

いい気分になって、コーヒーメーカーに残ったコーヒーのカスを捨てようと

紙フィルターの入っている容器ごと取り出して、ゴミ箱まで行く途中、水道の蛇口にひっかかって

コーヒーのカスが散乱した。

ちょうどシンクの中を磨こうと思っていたときだったから、ちょうどよかったとむりやり思い、

シンクを洗った。



こんな日は、どこへも行かずに家にいたい。

が、そうもいかないので仕事に行く。

今日はもう何もありませんようにと思いつつ、車に乗ろうとしたら、後部座席の窓が開いていた。

私の車はガレージの外に停めてあるので、屋根がない。

昨夜降った雨が、じっとりと後部座席を濡らしていた。

「ああ・・・なんで・・・・・

時間がないのに、バスタオルで吸えるだけ吸う。

いつもより慎重に運転して職場に行った。


なにごともなく仕事は進んだが、ランチタイムにお弁当をあけたら

氷水を入れた水筒の代わりに、シンクを磨く洗剤が出てきた・・・・・

ぐだぐだな日は、なにをしてもぐだぐだで、もう笑うしかないのである。










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形見

2017-09-27 07:50:30 | 日記
コラージュのメンターだったスーザンが亡くなって、3ヶ月が過ぎた。

(その記事はコチラ

スーザンを頭に、コラージュをやる仲間が漠然と集まっているだけで、

私達は特に決まったグループでも、ましてやクラスというのでもない。

だから、突然リーダーがいなくなって、残された私達はどうしたものやら途方にくれた。

スーザンは、あとのことを決める間もなく逝ってしまったけれど、

この先もコラージュを続けていくことが彼女の1番の願いだとわかっているので、

スーザンがいた頃のように、Ho'omaluhia(ホオマルヒア)ボタニカルガーデン内のスタジオで

月に2回、その日に集まれる人が集まってコラージュを創作している。


その仲間の一人で、スーザンの親友でもあるバーバラが、

スーザンが所有していたコラージュの紙などを全部持ち出して仲間に分けた。

「スーザンはきっとそうしてほしいと思っているはずだから」

スーザンの夫のダンが、そう言ったのだという。


私のところにやってきた、大量の染めた紙や美しい和紙(スーザンはどこで手に入れたんだろう)に混じって

作りかけの作品がある。




縦が1mぐらいの作品だ。

キャンバスではなく、木のボードに、アトランダムに銀と金の紙を貼ってある。

こうしておくと、この上に染めた紙を貼ったとき、下の金銀が透けて独特の光を放つのだ。

左下に花瓶、その花瓶にヘリコニアだろうか、花が下書きされている。

私がこれを完成させるのだ。

壁に立てかけ、腕組みをして眺めている私を、

スーザンがにやにやしながら見ているような気がする。






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2017-09-26 07:28:14 | 日記
CHOZEN-JI(超禅寺)という禅寺に行った。

アート仲間のペギーがそこで働いていて、彼女から受け取るものがあったついでに

お寺の中を案内してくれるというのだ。





カリヒの山あいのどんづまり、のどかなのどかな場所に寺はある。



右側の建物が、かつては寺社であったという。



道場。

ここで剣道や合気道、華道を教えていて、毎朝毎夕、座禅も行われている。

あちらこちらに、見事な習字(習字で正しい?)がかけられている。



『只在』  ただ、ある。

まさに禅。今この瞬間に存在するだけ。

ここは曹洞の禅寺で、臨済よりも厳しくないのだそうだ。

日本人であることがいたたまれないような気持ちになるのは、こんな時だ。

禅の発祥は日本じゃないにしても、道元からあとは日本に根強く広がっているのだから

日本人として禅とはなんたるかを知っておくべきである。

ガイジンであるペギーの説明を、「ははぁ、なるほどー」と口をあけて聞いている私は

まったく情けがないことこの上なし。


「日本人なのに、禅のことを知らないなんて恥ずかしいよねえ」

と私が言うと、

「そんなの恥ずかしいことでもないよ。私だって自分の国のことを何でも知っているかといえばそうじゃないしさ」

とペギーが笑って私の肩を叩いた。




禅のことを、少し勉強してみた。


禅の始祖は、南インドで生まれ、中国にわたった 達磨 である。(なるほど)

13世紀鎌倉時代に日本にもたらされた。

臨済禅曹洞禅が主な宗派で、それからさらに細かく分けると47の流れがある。

臨済禅は、栄西がもたらしたもので、公案とよばれる「お題」が投げかけられ、それを自己を無にすることで解く。

曹洞禅は、道元がもたらしたもので、座禅を組んで、何もなかったころの自分に立ち返る。



世界はすべて無であり空(くう)である


お、なんかいいこと言ってるぞ。

人間は生まれてから死ぬまでの間に、主観ー客観、自己ー他者、善ー悪など、相対的なものを区別し、

「自己、自我」というものを作り上げてゆく。

しかし仏教において「自己」は実体のないものであり、禅においては迷い、束縛の元とされている。

自分のあるがままの姿に気づくため、座禅で心の余計なものをひたすらそぎ落としてゆく。





私は特定の宗教をもたないが、

神も救世主も霊魂すらもない、ただ宇宙が広がっているだけのような「禅」には心ひかれるものがある。

天国も地獄もない、救われるとか救われないとかもない。

なんと自由だろうか。



この寺は、気持ちがいい寺だ。

朝の座禅会に、ほんの少し心が動く。




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まぼろしの北海道産小豆100%

2017-09-25 15:22:38 | 食べ物とか
食べ物に関して、購買欲をそそられるフレーズというのがある。

それを見ると、ついふらふらと買ってしまうのだ。

今頃の季節、 和栗 などと書いてあったら弱い。

和栗のタルト、和栗を使ったモンブラン、そんなのを見たらイチコロだ。

ハワイには和栗なんてものは売ってないし、そもそも栗自体を日本人ほどありがたがらないので

和栗にやられることはなくなった。


とろけるチーズ 、なんてのも弱い。

生まれた時からチーズがまわりにあった人たちとは違い、私は幼稚園時代に少しだけ通った英語教室で

生まれて初めて ピザ なるものを食べた。

「これはいったい・・・!!!!」

というほど、とろけるチーズが美味しかった。

それまで家でチーズを食べたことはなかったように思う。

それ以降も、自分で外食ができるようになるまで、チーズは給食についてくるプロセスチーズぐらいのものだった。

今は、チーズは当たり前にあふれているので、とろけるチーズにやられることもなくなった。



危ないのは、 北海道小豆100% である。

日本食スーパーで、私の目が釘付けになったのは、まさにそれだ。



おしるこ。

これも弱い。

おしるこに浮かぶ餅。

さらに弱い。

パッケージの写真にお餅らしきものが浮いているが、これは白玉であろう。

白玉も、ここじゃ餅と同じぐらいの価値がある。

もちろん私は買った。

いそいそと家に帰り、一人分のレトルトをお湯で温めた。

お椀に移すと、北海道小豆など一粒も見当たらず、こしあんの上澄みのようなものがさらさらと出てきた。

まあ、いい。これは北海道小豆を漉したものなのだ。

白玉を探すと、細かいアラレのようなものがパックに入っているだけで、逆さにしても白玉はない。

よくよくパッケージを見ると、写真の下に 小さく、それは小さく


※写真の白玉は入っていません(イメージ例)


と印刷されているではないか。

なんてことだ、白玉なしのお汁粉だ。

ふん、なにがイメージだ。イメージなんかとっくに脳内にできてるっての。

これじゃまるで絵に描いた餅だ(うまいこと言ったつもり)

まあ、いい。アラレがあるから、焼いた餅の香ばしい雰囲気ぐらいは味わえる。

アラレは原価が安いのかふんだんに入っている。

そのアラレをざらざらと入れて、お汁粉を食べた。

こしあんの上澄みのようなものなので、食べたというより飲んだという感じなのだが、

多くを望まない体質になっているから、こんなもんだろうなと納得した。


さて、残り3食分をパッケージに戻そうとして気づいた。

アラレがない。

さては、あのアラレは4食分のアラレで、あの1パックを4回に分けて食べよ、ということであったのか。

どうりでふんだんにあるわけだ。

『このアラレは4食分です』とかなんとか、アラレの袋にこそ書いておくべきだ。

しかし、あけたら最後、4食を食べきるまでにアラレは湿気てしまうが、そこのところはどうなんだ。

とにかく、すべてのアラレを食べてしまった以上、残り3食はアラレなしの、こしあんの上澄みだけを飲むのだな。




今日、2食目をあけた。

アラレなしのおしるこ。

北海道小豆を脳内でイメージし、香ばしく焼いた餅をその上にのせ、

こしあんの上澄みを飲んだ。

なんしか、悲しくさえなってきた。









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