太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

夕食事情

2024-02-28 13:45:02 | 日記
きっかけというきっかけはなかったのに、気が付くともう3週間ほどは義両親と別々に夕食を食べている。
その後、しばらくは別々に食べていたが、「見てな、そのうち誘いにくるから」と夫の言ったとおり、何事もなかったように、また一緒に食べるようになった。

義両親は外食も多いし、遅いランチだったから夕食はいらないという日もあって、毎日一緒に食べるわけではないけれど、一緒となればメニューのすりあわせやなど、小さいことながら面倒。
その上、彼らと私たちでは食べるものが違う。
それで最近は、互いのメニューに関係なくそれぞれの食べ物を持ち寄る感じになっていたのだが、二人と四人では作る量も違ってくるわけで、たとえば二人なら魚は二切れでいいけど、一緒に食べるかもしれないから四切れ買う。
それなのにテーブルに出すと殆ど食べなかったりする。

それがこの3週間あまり、まったくの別々。
食べたいものを、自分たちの都合だけで食べられるのはこの上なく楽だ。
それに、帰宅してすぐシャワーを浴びたら、そのままパジャマにだってなれる。義両親側の家で食事となると、まさかパジャマで行くわけにいかないから、部屋着に着替えねばならない。
うちは就寝時間が早いので(7時台にはベッドに行って本を読む)、帰宅してから寝るまでの時間が2時間ぐらいしかない。
たった2時間のために部屋着に着替える意味があるのか?
日本にいた時のように、寝る直前にお風呂に入る生活なら、わかる。私だって日本では、ちゃんと部屋着に着替えていた。

楽には楽なのだが、こうなってみると、義両親と顔を合わせることがない。
車があれば在宅で、車がなければ出かけたのだとわかる程度。
夫は、帰宅したあと義両親側の家に出向いて少し会話をすることがあり、そこから私は彼らの近況を知る。

「ハテ?これでいいのか」

我が家を建てる前は、人種も違えば言葉の壁もあり、とにかく近すぎて息が詰まるような日々だった。
何をどこまで、どうしたらいいのか、わからないことばかり。
たとえば洗濯機の中に、洗濯しおえたものが残っていたら、気をきかせて乾燥機にいれたほうがいいのか、余計なお世話なのか、そんな小さいなことで悩んでいた。
義両親はまだ現役で、しかもシュートメはストレスでささくれ立っており、フランクに何かを聞けるような雰囲気ではなく、私はまるで怖い風紀の教師の顔色をうかがうように暮らしていたのだった。

移住して13年、家を建てて10年、シュートメもリタイアして丸くなった。
何をどの程度どうするべきかも、今はだいたいわかっている。
洗濯機の中の洗濯物は、乾燥機にいれることもあるし、入れないこともある。
わからないことは、直接聞くし、
頼みたいことも、どんどん頼む。
いろいろあったけれど、今はシュートメのことは好きだ。
腹黒いところがなく、言葉と心の中が同じで、とてもわかりやすいのもいい。
それでも「家族」という感じではなく、夫の親、ではあるのだけれど。


顔を合わせなくてラクチン、と言ってて、いいのか。
心の声が、言う。


仕事の日はまったく接点がないので、休日に、彼らの気配を感じたら、出向くようにしている。
先ほど、ガレージにいたので外に出たら、
「あらー、久しぶりねえ、元気?」
と、近所のおばさんみたいなことを言われて、二人で笑った。
しばしガレージで立ち話。
義両親との距離は、これからも私の課題なのだと思っている。





パパイヤは今

2024-02-27 07:41:58 | ハワイの自然
庭に自然に生えてきたパパイヤが、とっても美味しい実をつけるので、種をとっておいて蒔いたのが昨夏。
ひとつの実には何十個という種があり、それを適当にすくって蒔き、元気そうなのを残して間引きして、4つの芽が残った。
この後、淘汰されて2つが生き延びた。

2023年8月

2つのパパイヤは何回か植え替えをし、今はどうなったかというと、

パパイヤ1号

パパイヤ2号

高さは、身長152センチの私の腰ぐらいまである。
そろそろ地面に植えたいので、試しに植える予定地にしばらく置いてみて、順調に成長するようだったら本格的に植える予定。

パパイヤに遅れて、リリコイ(パッションフルーツ)の種も蒔いた。
酸っぱさが苦手という人もいるけれど、私はリリコイが大好きで、ヨーグルトにたっぷり混ぜて食べるのが好き。
時々、隣家からお裾分けでいただくが、家で摂れたらいつでも食べられる。
リリコイもすくすく育った。

キッチンの窓の下にネットを張って、準備完了。

我が庭にある果物は、ライム、アボカド、タンジェリン、パパイヤ、バナナ。
これから欲しいと思うのはレモン。
畑をやるほどマメではないから、ある程度放っておいても元気な果物が1番である。




知らない方がしあわせ

2024-02-23 07:34:13 | 日記
久しぶりにYouTubeを見たら、

食べてはいけない
買ってはいけない
使ってはいけない
これをしたらダメ

そういう類の動画が目についた。
それらの動画の閲覧数がけっこう高めなのをみると、人は自然と「つまづく前に対処しよう」と生きているものなのだと思う。

単純で影響されやすい私は、そういうものから距離を置いた方がいい。
いったん、脳に送り込まれた知識は、それがネガティブであるほどしつこく残り続けることを知っているのだ。

大昔、ボウリング場に行った時、併設されているゲームセンターの隅っこに「姓名判断」の機械があった。
軽い気持ちで友人と姓名判断をしてみたら、私の下の名前は『後家になる』運命だというではないか。
ボーイフレンドもいないのに、今から後家になることが約束されているなんて目の前が真っ暗になった。
同じ字で同じ名前の先生が高校の時にいたが、あの先生が後家になったかどうか調べたいと思ったほどだ。

「その名前の人がみんな後家になるわけないじゃん、ただのゲームでしょ」

と姉は言い、

「どうせ多くの人はいつかは後家になるんじゃないの」

と母は言った。
それはそうかもしれないけど、後家の呪いはそのあと、ずっと頭を離れることがない。さすがに今はそれを信じているわけではないが、忘れてはいない。
こんな私であるから、「こうしてはいけない」たぐいのものを見てはいけないのだ。
ネガティブな暗示にかかるのは一瞬で、その半分でもポジティブな暗示にかかれたらどんなにいいか。

いっとき、友人が経皮毒に凝っていたことがあり、
「もう怖くて使えるものなんかないよぅ」
とこぼしていた。
そうれ、ごらん。
だから知らない方が幸せなのよ。

だから私は、「いけない」情報はあえてスルーして、「こうしたらいいことがある」たぐいの情報だけを見るようにしているのである。




私が失ったもの

2024-02-22 07:50:46 | 絵とか、いろいろ
マイクに出会うまで、私は芸術を仕事にしようとは思っていなかった。
むしろ、好きなことは趣味のままのほうがいいと思っていた。
コラージュのメンターであるスーザンに、作品をギャラリーに持ち込んでみたらと勧められても、断られるのが怖くて聞き流していた。

マイクのおかげで、作品をプリントして売るようになり、彼が間に立ってくれたおかげで、ギャラリーに飛び込みでなく持ち込めるようになり、ラティーシャに出会って、オリジナルもたくさん置かせてもらえるようになった。
そうしてかれこれ10年以上も、作品を創り続け、売り続けている。

次の作品のアイデアに詰まった時、昔の作品をアレンジすることがある。
好きな題材というのは、何度でも作ってみたくなる。
コラージュは染めた紙を選んで貼ってゆくため、筆で描く絵とは違って、たとえ同じ構図で作ったとしても、けして同じものはできない。まったく同じ紙は存在しないからだ。
昔の作品のほとんどは、既に売れてしまっていて、手元には数えるほどしか残っていない。
それらを出してきて、眺めるとき、私は私が失ったものに気づく。


作品を売り始める前に創ったものには、勢いがある。
自由で、思い切りがよく、元気なエネルギーがある。
それは子供たちが描く絵に似ている。彼らは何者にもなろうとしていない、そのまんまの自分を、そのまんま表現する。
だから突拍子もないものであっても、そこには素晴らしい勢いがあって、見る人の目を引き付ける。

たとえば、これは12年前の作品。

今、アンスリウムを題材にして創ったら、こんなふうにはならないと思う。
もっとスマートで、おさまりよく創るだろう。
そして、これは正真正銘、作品第1号。
目を覆いたくなるような、稚拙な出来だけれど、なんともいえないおおらかさがある。
この10年余の間に、技術的には大きな進歩をして、昔よりも格段に「上手な」ものを創ることができる。
けれど、確実に失ったものがある。

私が私だけのために創っていたのが、今は、売れるものを創っている
それが原因だと思う。

もちろん、創りたくないものは創れないが、そこには必ず「売れるもの」という条件がつく。
仕事にしている以上、それは当然なのだろうけれど、技術を得た代わりに失ったものについて思うとき、呆然となる。

美大時代の友人で、夫婦で焼き物を生業にしている人がいる。
彼女があるとき、言った。
「好きで仕事にしたけど、生活していくとなるとなかなか好きなものだけ作るわけにはいかないよね・・・」
当時、彼らは紅茶会社から依頼された、点数を集めるともらえるオリジナルカップか何かを大量に作っていた。
自分の好きなものはまた別に作ればいいんじゃない、なんてわかったようなことを言ったような覚えがあるが、私は本当に何もわかっちゃいなかった。


私が私のためだけに創っていた、あの私に戻ることはできるんだろうか。
作品第1号を、寝室の壁に飾った。
かき氷みたいなプロテア、目玉焼きみたいなピンクッション、まるで子供の作品のような第1号を見ながら、私は私が取り戻したいものについて思うのである。







さよならドッティ

2024-02-22 06:53:09 | 日記
ドッティが、亡くなった。
夫家族の、長いファミリーフレンドであり、私のアート友達でもあった。
ダンナさんのポールとともに、あまり元気じゃないと聞いて、会えるうちに会っておこうと、何度か家を訪ねていった。
80を過ぎても、いつもなにかおもしろいことを探しているような、キラキラとした目を持っていた。
初対面の人をまったく警戒させない柔和さがにじみ出ていて、人の気持ちを思いやり、人を笑わせることが得意。
こんなふうに年をとりたいと思う、ドッティはそんな人だった。


この写真は、昨年3月下旬のころ。

彼らは二人暮らしだから、通いのヘルパーさんがいて、友人らが食事を届けたり、本土から息子さんたちが交代で来ていたりしていた。
この日、私は彼らが大好物の稲荷寿司をたくさんこしらえて持って行った。


クリスマス前に、ポールが亡くなった。
とても仲の良い夫婦で、きっとポールはドッティが来るまで、どこにも行かずに待っていたような気がする。

私が好きなドッティの作品

2人は、30代ぐらいの若さに戻って、手をとりあって光の中に入っていく。
そう思ったら、悲しみは薄れる。
それでも、ハワイに来たばかりで居場所もなく不安でいた私に、突然電話をかけてきてくれたことなどを思い出すと胸が詰まる。
「どうしてるかなと思ってさー」
サバサバとした言い方の裏にあるやさしさが嬉しかった。
一緒に出掛けたアートショーで、ひとつの作品の前で止まって、
「シロにはこういう感じの絵も描いてほしいなァ」
と言った。
それは、水彩に、黒いペンで細かい描写の入った絵だった。ペン描きだけで細かい絵を描くのは、私がずっと以前に好きだったもの。
いつか、また、そういう絵を描くよ。


会えてよかった、ありがとう。