太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

ウサギさん

2013-01-30 09:19:18 | 人生で出会った人々
子供の頃、近所に ウサギさん というおばさんが住んでいた。

本名は 宇佐美さん なのだが、

祖母や母が「うさみさん」と呼ぶのを、子供だった私は「ウサギさん」だとずっと勘違いしていた。


ウサギさんのおばさんは、いつも着物の上にパリッとした白い割烹着を着ていた。

ウサギさんの家の前には、人が一人通れるぐらいの狭い砂利道と側溝があった。

砂利を踏んでそこを通ると、木の板の塀の向こうからウサギさんが鼻の下をいくぶん伸ばして顔を出し、

「アレ、こんにちは」

と言うのだった。



当時はまだアスファルト舗装されていない道が多く、

実家のまわりも砂利道が多かった。

しゃがんで地面を掘ると、ビー玉やら、陶器やガラスの破片なんかが出てきた。

思いがけずキレイなビー玉が見つかると、宝物を掘り当てたような気がした。

身体が弱かった姉は、入院していることが多かったから、母は姉の付き添いと仕事の両立で忙しく、

そんなとき私は祖母と留守番していた。

幼馴染の都合がつかない時には、たいてい一人で遊んだ。



ビー玉を掘っていると、買い物籠をさげたウサギさんが立ち止まって声をかける。

「きれいなの見つかったっけねー」

泥の団子も、ウサギさんは「ごちそうさま」と言って食べてくれた(むろん、食べるフリをしただけだが)






夕刊の新聞配達のオートバイの音が、止まったり鳴ったりを繰り返していた。

どこからともなく、お釜でご飯を炊く香ばしい香りや、魚を焼く匂いが漂ってくる。

うちはもうガスだったけど、幼馴染の家では、まだカマドを使っていたっけ。

豆腐屋さんのラッパが、どうしようもなく寂しく聞こえた。

今でも、私はあのラッパの音を思い出すと、胸がぎゅーと切なくなる。


思えば、私はいろんな大人に育てられた。
そういう時代だったのだろうか。


ウサギさんが、宇佐美さんだとわかったのは、

ウサギさんが引っ越してしまって、しばらくたってからだった。









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ミシン

2013-01-28 20:25:08 | 日記
ミシンが壊れて肩が凝った。



夫の母のミシンは、かれこれ40年は経っている年代もので、一応電動式ではあるが、

その重さといったら20キロはあるんじゃないかと思われる。

電気コードは劣化して固くなっているし、とにかく使うたびに不安になるようなミシンなのだ。


ベッドまわりのピロー一式のカバーを新しくしようと思った。

枕といっても、大きいのが4つ、小さいのが2つあるから、既製品を買おうと思うと、これがなかなかのお値段。

ただ布をまっすぐ縫っただけで、なんで何十ドルも出すのさ?と思い、布を買って来た。

布を裁って、いざ縫おうと思ったら、ミシンが動かない。


仕方がないので、手縫いで作リ始めて、肩が凝っているわけなのである。



私の母は大変器用な人で、洋裁でも編み物でも刺繍でも、みごとにきれいに作り上げる。

どうやら、そのDNAを受け継いだのは妹だったようで、私にはこれっぽっちもその才能がない。

思い立ってすぐに行動しないと気がすまない性格の私は、

行動したらすぐに結果を見たいという性格でもあり、そもそも物づくりには向いていない。

そこへもってきて、緻密さが足りないときている。



過去、人並みに好きな人にセーターを編んだりもしたし、パジャマを作ったこともある。

しかしセーターはめったやたらと重くなり、「着ると鉛を背負っているようだ・・」と言われた。

パジャマは、左右の身頃の幅が違う、ズボンの長さが違う前衛的なデザインになった。



そんな私であるから、もう分不相応なものを作ろうとは思わない。

それでも、何か作りたいという欲求だけはあって、「直線縫い」に限って自分に許可をおろしているのである。



さて、4つのピローケースを、映画を見ながら手縫いしているのだが、これが遅々として進まない。

延々と続く直線をやっと縫い終えたと思って布を持ち上げると、

ところどころ服もろとも縫ったために、私が着ている部屋着も一緒に持ち上がる。

服を縫わないように気をつけてやり直せば、中表になるはずの布が裏返しになっていた、という具合だ。



夫の母のミシンは、たぶん修理しようにも部品がないだろう。

ミシンがあったら便利だと思うものの、袋ものしか作れない私に、果たして新しいミシンを買う価値があるんだろうかと思うと、

それもまた疑問なのである。



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2013-01-28 07:25:16 | 日記
私ぐらいの年齢になると、片親しかいない人も多いし、両親とも亡くしている人もいる。

ありがたいことに私の両親は健在で、自営業のため、まだ現役でもある。

両親は高齢だけれど、姉一家が二世帯住宅に建て替えて一緒に住まってくれているので安心だ。



ハワイに来て、いろんな人に

「日本が恋しくならない?」と聞かれるたびに、

「ぜ~んぜん」と答えていた。

懐かしく思うことはあっても、帰りたいわけではないから、それは嘘ではなかった。



昨年11月に、1年半ぶりに帰国した時、姉が

「最近おかあさん、歩くのも遅いし、年取ったなと思うのよね」と言った。

電話の声は変わらないけれど、そういわれてみれば動きがゆっくりになったかもしれない。

先日、妹がメールの中で

「おかあさんったら、また背中が丸くなって、足もむくんで辛いことがあるみたい。帰った時はマッサージしてるけどね」

と書いてきた。



私は、むしょうに母の声が聞きたくなり、実家に電話をしてみたのだが、

どういうわけか「ツー」という音が鳴るだけで通じない。

携帯電話にかけてみると、コールはするが、母が出ない。

結局、母とは話せなかった。

私は、いきなり母がものすごく年をとって弱ってしまったような気がして、

おととしの4月にハワイに来た時には元気溌剌だった母には、もう戻れないのではとまで思った。




子供なんて勝手なもので、親はいつまでも元気で若いと思っている。

私など、親はずっと四十代だと錯覚したままだ。

親の老いを認めたくない。

認めてしまえば、別れが近くなってしまうような気がするからだ。

本来なら、自分が誰かの親であっていいはずの年齢の私が、いつまでも「子供役」だけをやっているから、

親との別れがこんなに怖いのだろうか。

誰かが、今はもう亡き親のことを平然と話すのを見て、どうやって寂しさを乗り越えたんだろうかと思う。



私は今更のように気づいた。



日本を離れても、日本がそれほど恋しくならなかったのは、親が元気でいてくれるからだ。

私にとって日本は、イコールそのまま「親」だ。

何度も何度も、繋がらない電話をかけ続けたとき、

日本を離れて暮らすということの意味を思い知った。



ハワイに行くと決めた時、寂しくなると言う親に、

国内だって遠くの島に住んだらハワイと似たようなものだし、会いたいときにはすぐ会えるよ、と言って慰めたけれども、

そしてそのときは本当にそう思っていたんだけれど、

そうじゃないんだと今は思う。





電話が繋がらない、と姉の携帯電話で話したあと、妹からメールが来た。

「心配かけてごめんね、おかあさんは普通に元気だよ、安心して」

姉と妹が近くにいてくれるから大丈夫なんだ。



私はハワイでの暮らしが好きだ。

けれども、それと引き換えに、何かとても大切なものを、手の届かない場所に置いてきたような気がする。

それは、手が届くところにあったからといって、いつか消えてゆくのを止めることはできないのだけれど。



両親が、彼らの望まぬ生き方であっても、結局はいつだって私の生きたいように送り出してくれたように、

私も両親が老いてゆくのを許してあげなくてはならないんだろう。





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ラッキョウ

2013-01-25 07:43:37 | 食べ物とか
大人になってから食べられるようになったものはいくつかあるが、

ラッキョウもその一つだ。


子供の頃、歩いて10歩ぐらいのところに幼馴染の家があった。

男の子と女の子がいて、二人とも姉と私と年が近かったから、毎日のように遊んだ。

幼馴染の家で、時間を忘れて遊びほうけていて夕飯時になり、

時に晩御飯をよばれていくことがあった。



その家族は私のことを「くうくたん」と呼んだ。

私の名は ヒロコ で、どこをどうしたら「くうくたん」になるのかわからないのだが、

とにかくその家族だけが私をそう呼んだ。



おばちゃんが、「くうくたん、ご飯食べていきな」と言う時は、きまってカレーライスだった。

子供ならみんなカレーライスが好きなものだし、私たちが夢中で遊んでいるのをみて、カレーライスにしてくれたのかもしれない。

その家には、まだ土間があって、カマドもあった。

そこで、漬物樽と同じ匂いのするおばあちゃんが、分厚い木の蓋が乗ったお釜でご飯を炊く。

そうして炊いたご飯は、艶々として、甘みが強くて、カレーライスがいくらでも食べられた。



私の家ではテーブルに椅子でご飯を食べるのに、その家ではちゃぶ台があって、みんなで畳に座って食べた。

夏には、お風呂までよばれていくこともあった。

その家のお風呂は木でできていて、外から火を燃してお湯を温める。

土間もカマドも、ちゃぶ台も木のお風呂も、何もかもが珍しく、まるで遊園地にいるようだった。



ただ一つ、嫌だったのは、カレーライスにおばちゃんがラッキョウを乗っけてくれることだ。

幼馴染のきょうだいは、ラッキョウが好きだったから、私も好きだと思ったのだろう。

でも私は、福神漬けのように甘くないラッキョウの味も、歯ごたえも好きになれなかった。

かといって、出されたものを残すこともできず、

それは好きじゃないと言って、おばちゃんをガッカリさせる勇気もなかった私は、

ラッキョウをカレーの中に埋めるようにして、できるだけ噛む回数を減らして飲み込んだものだ。



がんばってラッキョウを食べてしまうと、

「ほら、くうくたん、まだラッキョウあるだからね」

と言って、新たなラッキョウをお皿に乗せられると、涙目になりそうになった。




ラッキョウがおいしいと思うようになったのは、ここ数年のことだ。

夫はガイジンのくせに、ラッキョウが好きで、カレーのお供に欠かせない。

マウイオニオンのピクルスに、味が似ていなくもない。




そしてラッキョウを食べるたび、幼馴染の家で食べた、じゃがいもがゴロゴロ入ったカレーライスを思い出す。

「くうくたん」の理由を聞きそびれたまま、数年前におばちゃんは帰らぬ人となってしまった。

会おうと思えば会えるところにずっといたのに、

どうしてそうしなかったのだろう。

誰かと会えなくなったとき、きまってバカみたいに同じ後悔を繰り返すのである、。










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