太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

姉の誕生日

2024-04-10 08:59:46 | 人生で出会った人々
今日は姉の誕生日だ。
姉とは3歳、妹とは5歳離れている。
妹とは、それほど喧嘩をした記憶はないが、姉とはよく喧嘩した。
2段ベッドの、上に寝るか下に寝るかで喧嘩し、おやつの分担で喧嘩し、ピアノの練習のことで喧嘩をした。
私の1番古い記憶は、まだ幼稚園にもいかない年齢だった私が、小学校の宿題をやっている姉を見て、
「いいなあ、宿題」
と言ったら、姉が
「ばーか」
と、さもバカにしたように言い放った。
確かに、なにより宿題が嫌いな私なのだから、あの頃の私に「ばーか」と言いたい。

姉はいつも私の前を歩き、お手本であり、ライバルであり、お互いにどこかで目の上のたんこぶ的存在でもあった。

姉との関係が変わってきたのは、姉が東京の大学に進学してからである。
姉の恋愛の話を対等に聞けるようになり、姉が横浜で就職すると、だんだん友達のようになっていった。
時々、姉が帰省したとき、まったく同じイヤリングや、色違いのワンピースを着ていることがあり、驚いた。
姉は横浜で、私は静岡で買い物をしているのに、どうしてそんなことが起こる?

そのうち、妹も大人になり、今度は3人で買い物をしたりできるようになった。
3人で、九州に行ったり、出雲大社に行ったりもした。出雲大社については、なかなか結婚をしない姉に焦った母から、ごり押しされて行ったのだったが。

当時は、オンナの結婚適齢期は24歳だった。
何度かのお見合いもうまくいかず、母と姉とで結婚しないことについての口喧嘩になったあと、私に言った。

「私だってずっと牢屋にいたわけじゃない、普通に社会に出て仕事して、普通に人とかかわって暮らしているんだよ。なんで結婚しないの?って言われても、わからないよ、私にも」

そんな姉が突然、何の心境の変化か、横浜の病院を辞めて静岡に帰ってきた。
30代も後半で、親もこのまま3人で暮らせばいいね、と諦めていたときに、ふと見合い話が舞い込んできた。
こちらの年齢も年齢だし、断る理由もないので、「美味しい料理でも食べてくるよ」と気軽な感じで出かけていった姉から電話があったのは、数日後のことだ。

「シロちゃん、私、結婚しようと思う」

相手の人と会った時、うまく説明できないけど、とってもしっくりくる何かがあったのだと言う。
徳川慶喜の住まいだった場所で、姉は盛大な結婚式を挙げた。そのときの姉は、本当に本当にきれいだった。

静かなアパートで、好きな人と、好きなものに囲まれての幸せな生活は、1年もたたないうちに、姉の病気が発覚したことで激変した。
それは死を覚悟せねばならぬほどの大病だったから、知らされたとき、姉を失うかもしれない恐怖で両手がガタガタと震えたのを覚えている。
ダンナさんになった人は、仕事の前と後、毎日姉を見舞い、毎日手紙を書き、その献身ぶりには頭が下がる思いだった。

「結婚する前に病気がわかっていたら、私は生涯結婚しなかったよね」

病気は避けられないことで、それを乗り越えるのに必要な人と出会うのを待っていた、というふうに考えられないだろうか。


姉は生還した。
不自由さは残ったけれども、生きてくれている。
そればかりか、術後5年で、子供を授かった。その子供が小学校に上がる時に、実家を二世帯住宅に建て替えて、姉一家が実家に入った。
子供が大学生になり、両親を見送り、ようやく一息ついたところだろう。
家族がいて、良い友達に囲まれて、今は姉にとって1番穏やかなときではないだろうか。



姉の誕生日を迎えるたびに、元気でいてくれることに心から感謝をする。
とうの昔にライバルではなくなった姉は、母がいなくなった今、私には母のようでもある。
どうかこの人を私から奪わないでください、と天に祈った時の気持ちを思い出すとき、今すぐ日本に行って、姉に会いたくてたまらなくなるのである。









ジョージ

2022-07-05 08:24:50 | 人生で出会った人々
昨日のアメリカ独立記念日は、肌寒い1日だった。
月曜日は私の休日なので、仕事は休み。夫も、今手掛けている現場の事情で休み。
雨の合間を縫って車を洗っただけで、だらだらと、ほぼ何もしない優雅な休日を過ごした。

土曜日、ワイキキにあるひとつのギャラリーに作品補充に行った。
週末はだいたいジョージが店にいる。
ジョージといっても女性だ。
ジョージは白人で、かなりスリム、きれいにショートにした銀色の髪はつややかで、とてもオシャレな服と靴は隙がなく、往年の映画女優を思わせる。
背筋がすっきりと伸び、頭の回転が速く、静かに話す。
ジョージに会いたくて、私は土曜日を狙ってその店に行くのだ。

「そういえばフランスはどうだった?」

ひと月以上前に少し話しただけのフランス行きを、ジョージは覚えていた。
その日も話が弾み、ふとした話から彼女の年齢が明らかになり、私は絶句した。

80?エイティ?私の聞き間違い?」

きれいにしっかりとマスカラが塗られた、上下のまつ毛に囲まれた青い瞳が、いたずらっ子のように笑っている。
彼女は70歳ぐらい、もしかしたら60代後半かもと思っていた。

「いったいどうやって?」

「みんな同じこと聞くんだけど、私にもわからないわ。でも、これは言えるかも。ココよ」

と言って人差し指で自分の頭を指さした。

「この中では私は23歳のまんまなの。23歳の私にできないことなんかないわ。ま、多少肉体的にはガタがきてるとしてもね」

こんなにキラキラとした目をもった80になれるのか。
ジョージは私の目標になった。

「あなたと話すと楽しいよ、ありがとう」

帰り際、私がそう言うと、

「私も楽しかったわ。あなたはいつもアップビートだもの」

アップビート、アップビート・・・
憧れの人にそういわれたことが嬉しくて、スキップしたいような気分で車に戻った。







他生の縁

2022-03-17 08:24:39 | 人生で出会った人々
先日、美容院の予約の前にMさんに会った。
日本人のMさんはツアーガイドを仕事にしており、私の職場によく出入りするので知り合った。
彼は私と同じ年齢で、なぜか最初に会った時から妙にウマがあった。
ツアーガイドをしている人というのは、どこか独特な雰囲気がある。
具体的にどんな、と説明するのは難しいが、Mさんにはそういうものが一切ない。
飄々としていて、ユーモアがあり、どこかとても懐かしい。
仕事のときは数分しか話せないので、いつかゆっくり会いたいねと言っていいつつ4年余りが過ぎた。
そこで先日、美容院がMさんの住まいに近いので、思い立って連絡してみたら、会えることになったのだった。

カフェで飲み物を買って、外のパラソル付きテーブルで海を眺めながら機関銃のようにしゃべりつつ、
私はこの人を知っている、ずっと前から知っている、という思いが沸き上がってきた。
するとMさんが
「なんかさー、変なんだけど、懐かしい同級生に会ってるみたいな気がするんだけど」
と言った。
「だよねえ!!」
実際には互いのことは何も知らない。
私はMさんをニックネームで呼んでいるので、本名すら知らないのだ。
家族の話、ここに至る人生で起きたことの話、スピリチュアルな話、どれだけ話しても尽きない。
1時間半ほどはあっという間に過ぎて、今度また美容院に行くときに会おう、と言って別れた。

その話を夫に言うと、
「それはよかったねえ。そういう友達は大事にしたほうがいいよ」
と言った。
年を重ねてきて思うのは、自分にしっくりくる人に出会うのは難しく、もし出会えたらそれはかなりラッキーだということ。

美容院に行く楽しみが、増えた。
今度は名前を聞いてみようか。
まあ、名前などどうでもいいような気もするけども。









おねえちゃん

2020-10-30 12:46:54 | 人生で出会った人々
いつから私は姉のことを「おねえちゃん」と呼ばなくなっただろう。
気がつくと私は、姉の名前を短縮して「ちゃん」をつけて呼んでいた。

姉とは4歳離れている。
子供の頃は、二段ベッドのどちらに寝るか、といったようなことで喧嘩をした。
身体が弱かった姉に母はかかりきりのことが多く、私はいつも祖母と留守番していた。

いつも私の前を歩いていた姉と対等になったのは、私が社会人になってからだ。
そこに、私と5歳違いの妹も加わって、私たちは親友のようになった。
なかなか嫁にいかない娘に焦れた母に頼まれて、三人で出雲大社に行った。
そのあと、長崎のオランダ村にも出かけりした。


私たちは、顔も性格もまったく違う。
姉はきっちり四角で、私はスライム、妹は角が丸くて柔らかい四角。
四角に収まりきれない私を姉は持て余し、融通がきかない姉を私は理解できない。
それをくすくす眺めているのが妹。


姉に言われたことで、忘れられないことがいくつかある。


私が高校生のとき、祖母が入信していた宗教の本部に祖母のおつかいで何回か
行っているうちに、
私が入信しかけたことがあった。
私が宗教にのめりこむことを恐れた母はひどく怒り、玄関先で母ともみ合いになった。
東京で働いていた姉が帰省しているときで、
姉は私と母の間に入って、母に言ったのだ。

「シロがそうしたいと言うなら、それが正しいんだと思うよ、私は」

反発しあうことのほうが多かったのに、そう言われて驚いた。
そのすぐあと、急激に私は冷めて宗教には見向きもしなくなった。



私が離婚すると決めて別居していたとき、姉が手紙をくれた。

「誰かと生きてゆくのに1番大切なことは、理解しあえることじゃないと思います。
たとえ喧嘩になっても、相手をわかりたいと思う、相手にわかってもらいたいと思う、そのひたむきな気持ちがあれば大丈夫で、それが大切なのだと思います。」

それはまさに、私と相手に欠けていたもので、
なぜこの結婚が、こんなにみじめで虚しいものだったのかがわかった。
けれど、もうそれを同じ相手とやり直すには、遅すぎた。


姉は常に、自分が正しいタダシ子さん、そんなふうに思うこともあった。
でも、みんな、自分が正しいタダシ子さんなのではないか。
誰もおのれの正しさのスケールで、違う正しさを測りきれやしない。
違う正しさがあるから、自分の正しさの輪郭が見えてくる。

姉が大病をして、姉を失うかもしれない境地に立ってみて初めて、
姉が姉の正しさを持って、存在してくれていることがどれだけ私の支えになっていたかを思い知る。
姉を失うことは、親を見送ることよりも、もっと重いことかもしれなかった。


姉は今、元気に生きている。
私がスピリチュアルにハマっていた頃、スピと屁理屈でこねくり回した長いメールを読んだ姉が、
「私には難しいことはよくわかんないけど、シロちゃんが幸せならそれでいいや」
という返信をよこした。

わからなくていいんだ。
わかろうとしたんだから、わからなくてもいい。

私は相変わらず、姉の四角四面が理解できず、
姉は私のグニョグニョ加減を理解できないでいるだろう。
しかし、私にはない四角四面さでもって姉がいてくれるから、
私は安心してグニョグニョしていられるのだと思う。









やいやい

2017-09-12 07:36:20 | 人生で出会った人々
英語で、「YAIKS(ヤイクス)」という言葉がある。

うわー!とか、うげぇー!とか、そういう意味に使う。

これを耳にするとき、私は祖父を思い出す。



祖父は時々、「やいやい」と言った。

なにかしらの災難な状態のときに口をついて出る言葉で、

「○○さんがバイクで転んで入院したって」

「やいやい」

「今日はスーパーに良いお刺身がなかったから太刀の塩焼きにしたよ」

「やいやい」(祖父は太刀を甘辛く煮たのが好き)

というふうに使われる。

標準語でないことは確かだけれど、祖父以外に使っている人をみたことがないので、

静岡弁でも、祖父が生まれた地域だけの限定言葉なのかもしれない。

祖父とは毎日顔をあわせていたのにもかかわらず、私は祖父が楽しそうにしているのを見たことがない。

口数は少なく、楽しい話もしなかったが、苦労話も一切しなかった。

戦争のときも、三菱で働いていたときも、会社を興したときも相当苦労したはずである。

理系に強くて、かなり頭のいい人だったと思う。

昔の人にしては背が高く、いつも背筋をのばして、おもしろくもなんともないという顔をしていた。

冗談を言うとか、おどけるとか、大声で笑う祖父など一切記憶にない。

祖父とはなにもかもが正反対な息子が、私の父である。

父の弟である叔父たちも、祖父のそういうところは受けつがなかったのは幸いだったと思う。

そんな祖父が、頭の後ろをかきながら「やいやい」と言う様が、今も目に浮かぶ。

私の友達が家に遊びに来ると、祖父は顔を歪めて挨拶した。

それは祖父の笑顔なのだが、笑い慣れていないので、顔がぎくしゃくするのだ。

「シロのおじいちゃん、背中がぴんとしててかっこいいね」

そう言う友達もいた。

祖父は家ではいつも、紺色の着物を着て、黒い帯をゆるく締めていた。



祖父は88歳で亡くなった。

最後の1年は自宅で寝たきりで、でも頭はずっとしっかりしていた。

その夜、医者が家に来て、家族が見守っていたが、

今夜は大丈夫かもしれないと母が言い、私は歯を磨きに洗面所に行った。

洗面所に行く途中に、隣の、薄暗い居間を祖父が歩いているのを見た。

いつもの紺の着物を着て、ぴんと背筋を伸ばして、仏間に向かって歩いていた。

「おじいちゃん元気になったんだ」

と私は思い、すぐにそんなはずはないと気づき、仏間に行ったけれども、祖父はどこにもいなかった。

祖父の部屋に行くと、祖父は呼吸器をつけ、パジャマを着てベッドに寝ていた。

ほどなくして祖父は息をひきとった。

あのとき、祖父の魂はすでに肉体を抜けていたのだろう。



「おじいちゃん、そっちでも やいやい って言ってるの」

仏間の壁にかかっている祖父の写真に聞いてみても、

祖父は相変わらず、おもしろくもなんともないという顔をしてどこかを見据えているのだった。







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