職場で、中国人の男性が二人、ココナツシロップのビンを持って私のところにやってきて
「ファオ ミー、ファオ ミー」
と言う。
まったくわからないので困っていると、
二人が一斉にスマートフォンに向かって
「ファオ ミー マ」
と繰り返し、スマートフォンを私の耳に近づけた。
「Is this honey?(これは蜂蜜ですか)」
私は蜂蜜を持ってきて
「ファオ ミー」と言って蜂蜜を指した。
蜂蜜のことを ファオ ミー というのか。
英語のハニーに似ていなくもない。
そのあとは、発音の練習になる。
カタカナの ファー よりも、英語のFの ファー に R を足した音に近いようだ。
私の発音を、二人が笑顔で直してくれる。
こうやって、中国語をひとつ、二つと覚えた。
税金のことは スーィ 。(たぶん)
商品の価格が外税であることを知らない人が多く、レジで揉めることがある。
「税」と漢字で書いて見せても通じない。
あるとき、どうやら スーィ という言葉を繰り返していることから
それが税金のことだとわかった。
そしてそのあとは発音の練習になる。
中国語は、日本語のように、同じ音でもどこにアクセントをおくかで違う意味になる言葉があるようだ。
たとえば日本語で 箸・橋・端 では微妙に違うように。
だから、本で勉強するのは難しいかもしれない。
生きた中国語が覚えられるのはいいけれど、
この調子でいくと、文章にして会話をするまでに寿命が尽きそうである。
尽きるな、間違いなく。
宇宙全体を創ったのが 神 というものだとすると、
なぜひとつの言語にしなかったんだろう、と思うことは一度や二度ではない。
たまたま、生まれた国で使われていたのが英語だったというだけで、
初対面の外国人とすぐに話せてしまう人達(アメリカ人とかイギリス人とかカナダ人とか)が妬ましい。
たまたま、生まれた国の言葉が公用語でなかったために苦労している人達(私とか)は
こんなの不公平だ、と思う。
でも、
わからないはずのものが、わかりあえたときの喜びは、けっこう悪くないと思う。
あ。
だから今地球にいる人間は、地球を選んで生まれてきたってわけか。
5次元とか、あの世といった世界では絶対に体験できないもの。
わかりあえない、から、わかりあえたときの感動はきっと地球ならではのもの。
「違う」ということに苦しみ、悩み、怒ることさえ、おもしろいこと。
言葉といえば。
昨日、ワイキキのギャラリーで、9時になったので店じまいをしていたら、
白人の男性が、ある絵を指して英語で「これはいつまでこの値段なの?」と聞いた。
とっさのことで、何と言おうか考えていると、男性はあきれたような顔で
「英語わかんないんだ」と言った。
「わかるよ!」と言うと、再び同じ質問をした。
それに対して答えようとすると、
「やっぱり英語わかんないんじゃん」と言って去ろうとする。
頭に来た私は、
「明日もあさっても来週も来年もずーーーーっとだよ!!わかった?ずーっとッ!」
と、英語でまくしたてた。
男性は小さく「わかった」と言って帰っていった。
サービス業としては失格の対応だけれど、そんなのどうだっていいもんね。
ふん、英語しか話せないくせに何言ってンだか
男性の後姿に、心の中でそう毒づいた。
数年前の私だったら、落ち込んでいただろうと思うと、ずいぶん図太くなったものである。
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「ファオ ミー、ファオ ミー」
と言う。
まったくわからないので困っていると、
二人が一斉にスマートフォンに向かって
「ファオ ミー マ」
と繰り返し、スマートフォンを私の耳に近づけた。
「Is this honey?(これは蜂蜜ですか)」
私は蜂蜜を持ってきて
「ファオ ミー」と言って蜂蜜を指した。
蜂蜜のことを ファオ ミー というのか。
英語のハニーに似ていなくもない。
そのあとは、発音の練習になる。
カタカナの ファー よりも、英語のFの ファー に R を足した音に近いようだ。
私の発音を、二人が笑顔で直してくれる。
こうやって、中国語をひとつ、二つと覚えた。
税金のことは スーィ 。(たぶん)
商品の価格が外税であることを知らない人が多く、レジで揉めることがある。
「税」と漢字で書いて見せても通じない。
あるとき、どうやら スーィ という言葉を繰り返していることから
それが税金のことだとわかった。
そしてそのあとは発音の練習になる。
中国語は、日本語のように、同じ音でもどこにアクセントをおくかで違う意味になる言葉があるようだ。
たとえば日本語で 箸・橋・端 では微妙に違うように。
だから、本で勉強するのは難しいかもしれない。
生きた中国語が覚えられるのはいいけれど、
この調子でいくと、文章にして会話をするまでに寿命が尽きそうである。
尽きるな、間違いなく。
宇宙全体を創ったのが 神 というものだとすると、
なぜひとつの言語にしなかったんだろう、と思うことは一度や二度ではない。
たまたま、生まれた国で使われていたのが英語だったというだけで、
初対面の外国人とすぐに話せてしまう人達(アメリカ人とかイギリス人とかカナダ人とか)が妬ましい。
たまたま、生まれた国の言葉が公用語でなかったために苦労している人達(私とか)は
こんなの不公平だ、と思う。
でも、
わからないはずのものが、わかりあえたときの喜びは、けっこう悪くないと思う。
あ。
だから今地球にいる人間は、地球を選んで生まれてきたってわけか。
5次元とか、あの世といった世界では絶対に体験できないもの。
わかりあえない、から、わかりあえたときの感動はきっと地球ならではのもの。
「違う」ということに苦しみ、悩み、怒ることさえ、おもしろいこと。
言葉といえば。
昨日、ワイキキのギャラリーで、9時になったので店じまいをしていたら、
白人の男性が、ある絵を指して英語で「これはいつまでこの値段なの?」と聞いた。
とっさのことで、何と言おうか考えていると、男性はあきれたような顔で
「英語わかんないんだ」と言った。
「わかるよ!」と言うと、再び同じ質問をした。
それに対して答えようとすると、
「やっぱり英語わかんないんじゃん」と言って去ろうとする。
頭に来た私は、
「明日もあさっても来週も来年もずーーーーっとだよ!!わかった?ずーっとッ!」
と、英語でまくしたてた。
男性は小さく「わかった」と言って帰っていった。
サービス業としては失格の対応だけれど、そんなのどうだっていいもんね。
ふん、英語しか話せないくせに何言ってンだか
男性の後姿に、心の中でそう毒づいた。
数年前の私だったら、落ち込んでいただろうと思うと、ずいぶん図太くなったものである。
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