太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

スーザン

2017-07-04 16:18:38 | 人生で出会った人々
スーザンに初めて会ったのは、2011年の2月だ。

夫の叔母が、ギャラリーでおもしろい絵を見つけたと言って

その作品を作ったアーティストが書いた本を買ってきて、見せてくれた。

それが私がコラージュという技法を知った最初で、それを書いたのがスーザンだった。

実物を見たくてギャラリーに行くと、そこにワークショップの案内が置いてあり、私は迷わず申し込んだ。



ホオマルヒアという植物園の中のワークショップ会場には、既に10人以上の人が集まっていた。

もちろん知っている人などいない。

日本人は私だけで、それぞれに知り合いらしい彼らは楽しそうに歓談していた。

転校生のような気分で立っている私を見つけたスーザンは、両手を広げて言ったのだ。


「私、あなたが誰か知ってるわ!」


知っているはずなどない。私はスーザンの顔すら知らないのだ。

でもスーザンは満面の笑顔で両手を広げたまま近づいてきて、私を抱きしめた。

私はそれが嬉しくて、一気に緊張が解けた。




あれから6年。

今まで使ってきた、どの技法よりも難しいコラージュに魅せられた私は、ひたすらコラージュに取り組み続けてきた。

それを支えてくれたのはスーザンであり、他のコラージュ仲間だ。

行き詰った時、スーザンがくれる一言で突破口が開けた。

ひと月に2回、植物園の教室に集まって作品を見せ合い、指導を仰いだ。

スーザンは太陽のように、まわりを照らす。

明るくて、気が強くて、楽しいスーザンは、みんなをハッピーな気持ちにするのが得意だ。

そして何より、芸術を愛した。

油絵画家であり、陶芸家でもあり、コラージュ作家でもあるスーザンは、実際すばらしいアーティストだ。




今年の2月、コラージュに使う紙を染めるワークショップをやる予定が、スーザンが体調を崩して延期になった。

1月のワークショップの時には元気だったが、首に痛みがあるといって検査をした結果、背骨にガンが見つかった。

私は毎日、スーザンに奇跡が起こることを祈り続けたのに、

昨日、スーザンは眠るように逝ってしまった。



スーザンがいなくなって、気づいた。

スーザンに褒められたくて、私は作品を創っていた。

「私、これ大好き!!」

その一言が聞きたくて。

私がコラージュを売るようになったとき、

「もう独り立ちね、あなたを誇りに思うわ」

と言ってくれたけれど、私はずっと生徒のままでいたかった。

きっと奇跡が起こって、また作品を見てもらえると、私のどこかでは能天気に信じていた。

涙も出ない。

悲しみも寂しさもない。ただポッカリあいた穴に、風がひゅうひゅうと吹いている。







ありがとう。




 にほんブログ村 海外生活ブログ 海外移住へにほんブログ村

カワグチくん ヨコタくん

2016-11-27 19:48:50 | 人生で出会った人々
私が子供の頃、祖父と父でやっていた会社で働く、カワグチくんとヨコタくんという青年がいた。

会社の2階が、ささやかな寮になっており、二人はそこで寝起きしていた。

彼らは毎日夕食を食べに我が家にやってきたから、うちは毎晩総勢9人で食卓を囲んでいた。

二人の青年は、私と姉をとても可愛がってくれた。

カワグチくんは、坊主頭に近い短髪で、目がくりくりしていて、

ヨコタくんは、無造作に七三に髪をわけて、切れ長の優しい目をしていた。

夕食の用意ができるまで、私は二人にまとわりついて離れなかった。

彼らはいつもおもしろい話をしては、私達を笑わせた。



ある時ヨコタくんが、幽霊を見た、と言った。

我が家から会社までは700mぐらいの1方通行の1本道で、今でこそ舗装され

両側には家やマンションがぎっしりと建っているが

当時は砂利道で、見渡す限り田んぼといった風景だった。

ヨコタくんが、軽トラを運転して我が家から寮に戻る時、前方の十字路に

白い着物を着た女の人が立っていたのだそうだ。

その十字路を過ぎてすぐ、カワグチくんが振り向いたら、そこには誰もいなかったという。

隠れる建物などない、田んぼの中の十字路である。

怖がりのくせに、人一倍不思議な話が好きな私は、何度もその話をせがんだ。



どのぐらいの間、彼らが我が家に来ていたのかはわからない。

私の記憶は途中で途切れて、気がつくと、寮のあった社屋は倉庫になり、

少し離れた場所に新社屋ができた。

新社屋ができたとき、カワグチくんもヨコタくんもいなくなっていた。



私がもうすぐ30になろうかという年の暮れに、祖父が他界した。

通夜の席に、ヨコタくんがいた。

私はその時初めて、ヨコタくんは事務員だった人と結婚して、奥さんの姓になったこと、

独立して自分の会社を持ったのだと知った。

体調を崩して、その会社を閉めたことも。

母が教えてくれなかったら、それがヨコタくんだとはわからなかった。

5歳の記憶は曖昧で、目や髪型を覚えていても、顔全体となるとぼやけて形にならない。

だから顔を見てもピンとくるものはなく、この人がヨコタさん?という感慨だけがあった。

葬儀にも、ヨコタくんは来た。

長身の、黒い背広の肩をとがらせ、杖を持って立つヨコタくんの後姿に

私は声をかけることができなかった。

『幽霊の話をしてくれたこと覚えてますか?今でもそこを通ると思い出したりするんですよ。

もうすっかり変わっちゃったけど』

こう話そう、というシミュレーションだけが頭の中をぐるぐるとまわるばかりで、

それが声になることはなかった。

帰り際、母に挨拶に来たヨコタくんと、形ばかりの挨拶をした。

すっかり変わってしまったのは風景だけじゃなく、私も、ヨコタさんも同じだった。



カワグチくんの消息は、知れないのだと母が言った。



二人の顔かたちは霞がかかってゆくばかりなのに、

今ここに、ハタチそこそこの二人が現れたら、なぜか私はすぐにそれとわかるだろうと思っている。

蛍も普通にたくさん飛んでいた、砂利道を三輪のトラックが砂ぼこりをあげて走っていた、そんな時代の話である。







にほんブログ村 海外生活ブログ 海外移住へにほんブログ村





























Y

2016-08-22 18:31:40 | 人生で出会った人々
日本で父の会社で事務をしていたとき、オフィス用品を発注するサイト上に

発注担当者が集う場所があり、それを通して出会ったのが Y だった。

関東圏に住んでいたYとは、お互いの家を行き来もしたし、いろんなところに出かけた。

私達は正反対といえる性格だった。


たとえばYと食事をしているとき、Yのお皿の端のほうに、睫毛のようなものがあった。

食べ物に混ざっていたわけではないから、私だったら黙っているか、せいぜい店の人に言うだけだ。

それをYは、とことん罵倒し、とうとう一人分をタダにした。

電車に乗っている時、揺れた拍子に隣にいた女性が持っていたウーロン茶のペットボトルから

飛び出した雫が、Yのバッグについた。

女性は「すみません」と謝ったが、Yは「謝って済むと思ってんの!拭きなさいよ!」と言い

女性にティッシュを出させ、バッグを拭かせるまで許さなかった。

店員の態度が悪いと、やはりとことんやり込める。

やり過ぎじゃないかと言う私に対してYは、

「店の為だよ。次にその店に行った時、改善されていたらウンと仲良しになっちゃうの」

と言って笑うのだった。


そんな具合に、Yといると私はその場から消え去りたいと思うことがたびたびあるのだけれど、

私はYが好きだった。



Yと出会った時、私はまだ最初の結婚をしていたが、人生に大きなうねりがやってきて

私は家を出た。

離婚したい私に、相手は頑として応じないという攻防戦が続いたある日、

着替えを取りに家に戻った私は、洗面所にあるキャビネットの上に手紙が広げて置いてあるのを見つけた。

それは相手が私宛に書いた「遺書」だった。

私はすっかり動転し、気がつくとYに電話をしていた。

私の話を聞いていたYは、まったく動じずに言った。



「話はわかったから、それをそのまま、あった場所に置いて、あんたは実家に帰りな」


「でも、もし死んじゃったら?」

「大丈夫だよ」

「でも、もしも・・・」

私はその時、相手が死ぬということよりも、私が原因となることのほうを恐れていた。

10年以上連れ添って、冷たいものである。


「あのねぇ、遺書ってもんは普通、死んじゃってから机の引き出しとかからひっそり出てくるんだよ。

この意味わかる?それは遺書に見せかけた幼稚な脅しだよ。だから見なかったことにして帰りな」



それはそうかとも、思う。しかし私はさらに食い下がった。

「でも世の中には万が一ということが・・・」

するとYはカラカラと笑って言ったのだ。



「離婚していちいち自殺していたら、日本中死人だらけじゃん。死ぬ、死ぬっていう人は死なないよ。

それに、もしそうなったとしても、それはアンタのせいじゃないから」


「ほらほら!起こりうるかもしれないってことじゃん!」


「だからさ、もしそうなったとしても、それがアンタのせいじゃないって私がアンタに思わせてあげる」



それまで私に、こんなに断固としたアドバイスをした人はいなかった。

私はまだ動揺しながらも、Yの言うとおりにした。

このとき、私には寄り添ってくれる人ではなく、Yが必要だった。




そのあと、ここでは語りつくせないようなことがあり、私は離婚した。

いいことも、そうじゃないことも、ジェットコースターのように次々起きてきて、

私は目の前のことに対処してゆくのに必死だった。

少しずつYから心が離れていった。

私の理性はYと一緒にいたかったが、どうしても以前のようになれなくなった。

Yに対して失望することが続いたことも理由のひとつだと思うが

一緒に過ごすことや、なにかを分かち合うことに無理を感じてしまう。

自分にもYにも嘘をつきながら、前と変わらないふうに装うのはつらかった。

私は、Yと距離をおくようになった。

そのことがYを悲しませることはとても辛かったけれども、

そして私も悲しくてたまらなかったのだけれど、

それはもう、ほんとうにどうしようもないことだった。




私は今でも、Yが好きだ。

私がYに受けた恩を、私は生涯忘れない。

この先どこかでまた二人の人生が交差する箇所があるかもしれない。

Yが今幸せであることを、心から願っている。







にほんブログ村 海外生活ブログ 海外移住へにほんブログ村




















従兄弟

2016-07-24 10:21:41 | 人生で出会った人々
夢に、従兄弟が出てきた。

父のすぐ下の弟の息子で、今は父が祖父から受け継いだ会社の代表をしている。

彼は小さい頃、洟垂れのくせに、走っている車の種類を全部知っていて、

すわ神童か!と思ったが、男の子にはよくあることらしい。

長じてみれば、まずまず普通の子供であった。


彼の父、つまり父の弟である、私にとって叔父は徹底的な出不精で、

父とは好対照の人である。

洋服をあつらえるとき、袖の長さ5ミリ、ズボンの丈5ミリが気になる父に対し、

買いに行くのがめんどうで、妻が買ってきたものを何でも着るというこだわりのなさ。

私の病的なめんどくさがりと大雑把さは、この叔父からきているのではと思うことがある。

叔父がどれだけ腰が重いかという逸話に、

叔母が、あるスーパーでトイレットペーパーが安いから車で連れていってくれと頼んだら、

いくら安いんだ?と聞く。

100円ぐらい安いと言うと、じゃあ100円俺が払うから勘弁してくれ、と言ったという話がある。


ここで余談になるが、

この叔父が大学生の頃、東京で下宿をしていたのだが、

帰省するとき、誰でも彼でも連れて来てしまい、下宿の大家さん夫婦やその親戚、

叔父にも誰だかよくわからないような人達がいたという。

この叔父は、ひょうひょうとしていて、どこか違う次元を生きているようなところがある。



そんな家庭だから、家族旅行もなし、夫婦でどこかに行くこともなし。

そして、そうやって育った従兄弟が、みごとな出不精男になったのも無理からぬことだと思う。

前の結婚時代、家の近くのジャスコで従兄弟に会って、私は本当に驚いた。

彼の家からジャスコまでは、車で30分はかかる。

彼は奥さんと一緒で、照れくさいような顔で笑った。

叔父よりは多少進化していて、何回かに1度は折れるのだろうか。



その従兄弟が夢の中で、我が家に居候することになった。

彼はまだ独身で、スーツを着て、ここから仕事に行くのだという。

「ええー、バスを乗り継ぐのかー。めんどくせぇなぁー」

おおげさにほざく彼をみて、なんにも変わってないなあと私は夢の中で思っている。

最後に会ったのは何年前だろう。

今年日本に行ったら、会っておこうと思う。






にほんブログ村 海外生活ブログ 海外移住へにほんブログ村






おべっかさん

2015-09-21 07:33:37 | 人生で出会った人々
小学校の3,4年の頃、仲がよかった友達に、おべっかさんがいる。

「おべっか」が、こびへつらうという意味であることを知ったのは、ずっと後のことで

苗字が「おかべ」だったので、それをひっくり返しただけだった。

おべっかの意味を知ってから、悪いことをしたと反省した。



おべっかさんは、当時人気アイドル歌手の 朝丘めぐみ に瓜ふたつの

とても可愛い子だった。

夏休みは、毎日のようにおべっかさんが誘いに来て自由プールに行った。

ある夏の日、「飲んではいけない」と言われていた赤玉ポートワインを

家が留守なのをいいことに取り出して、少し飲んでみた。

ジュースのように甘くて美味しいそれを、コップ3分の1ぐらい飲んだだろうか。

そこにおべっかさんが迎えに来て、プールに行ったのだが、頭がぐるぐるして

景色もまわっているように見えてきた。


「顔が茹でたタコみたいになってるよ!」


おべっかさんがそう言って、私を家まで送ってくれなかったら、

私は自由プールで酔っ払って浮かぶ、という新聞記事になったやもしれぬ。



私はおべっかさんの家に遊びに行くのが好きだった。


おべっかさんの家は、車のとおりに面した角にあり、

フェンスからは青々とした芝生が見え、お母さんがピアノの教師だったから

よくピアノの音が聞こえてきた。

門の脇にはきんもくせいの木があって、天窓がある玄関はいつも明るかった。

玄関を入って廊下を右に折れると、右手にキッチンがあり、

そのまま進むとお父さんの書斎があって、廊下を左に曲がると居間があった。

直角に曲がった廊下からは庭が見えて、その廊下の突き当たりのドアをあけると、

おべっかさんの部屋があった。


横長の部屋の真ん中を、形の揃った背の高い引き出しで区切って、

引き出しの向こう側は、お兄さんが使っていた。



おべっかさんは、よく引き出しの中を片付けていた。

何段かの引き出しの中は、ブティックのように美しくたたまれた洋服がおさまっており、

おべっかさんは、丁寧に洋服をたたむと、その上に重ねて、

するすると引き出しを閉めて、

「これでよし」

と言うのだった。

私はそれをカーペットの上に正座して、じーっと眺めていた。


お父さんの書斎は、お母さんが留守のときだけ入れる秘密の場所で、

おべっかさんはそこから、ちょっとエッチな本を取り出して見せてくれた。

今思うと、それは外国の漫画家が描いたもので、たいしてエッチでもなかったのだけれど、

ふたりでどきどきしながら見た。




おべっかさんの家は、なにもかも我が家とは違っていた。

核家族で、男きょうだいがいて、お母さんはいつも家にいてのんびりして見えたし、

すべてが洋風で、優雅だった。

我が家は祖父母もいて、父の会社の若い人が食事をしに来ていたから、いつも大所帯で

母は超多忙、ピアノはレッスンの直前に付け焼刃で練習する程度で、

優雅なピアノの音色のかわりに、祖母が好きな大相撲がテレビから流れており、

片づけが苦手な母の遺伝子か、私も気持ちとは裏腹に引き出しの中がすぐに

ごっちゃりとしてしまう。

猫の額ほどの庭にあるきんもくせいの木を眺めて

おべっかさんの家にあるのと同じ木なのに、なにがこう違うんだろうと思った。



私にとって、少女マンガに出てくるようなおべっかさんの暮らしは憧れであった。



高学年になってクラスが変わると、だんだんおべっかさんとは疎遠になった。

二十代前半の頃だろうか、1度だけ街中でばったり出会ったことがある。

私もおべっかさんも母親と一緒だった。

朝丘めぐみにあれだけ似ていたのだから、さぞや朝丘めぐみになっているだろうと思いきや、

大人になったおべっかさんは、浅丘めぐみよりもきれいになっていた。


その数年後、ご両親が相次いで亡くなって、

角にあった洋風の家も、いつか知らない人たちが住んでいた。

おべっかさんは今どこでどんな人生を送っているのだろう。

「これでよし」

と言って、きれいな引き出しを作り続けているだろうか。




私はこんなにいろんなことを覚えているのに、

ただひとつ、おべっかさんが私をどう呼んでいたのかが思い出せないのだ。

私をヒークン、と呼ぶ子もいたし、違う名で呼ぶ子もいた。

おべっかさんの声も、笑顔もありありと思い出すけれど、

私の名を呼ぶときの、その音声だけが消えていて、

大事ななにかを置き忘れてしまったような気がするのである。












にほんブログ村 海外生活ブログ 海外移住へにほんブログ村