島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

窓から

2024-11-20 | ノンジャンル

 あまり外出することが無くなった私にとって、窓から見る西の空は数少ない世間です。

 昔バート・ランカスターの「終身犯?」と言う映画が有りましたが、(バート・ランカスターと言っても通じるのは年寄りだけですかね、最近亡くなったアランドロンでさえ知らない人がいて、私はアランドロンに似てたと言っても、うなずく人もいない世の中です)その映画では、狭い鉄格子のはまった窓から見える空だけが世間だったのですが、その頃は退屈な映画でしたが、今なら少しはその感じが理解できます、と言えば大袈裟ですね。

 朝7時になって、少し空が明るくなって、

   月は西に 日は東に の状態でした。

 昨日の朝から、いよいよ本格的に寒くなってきた京都ですが、デイサービスの車を待ってる玄関先で、虹をみつけました。

なんか民家の屋根から発生した虹の感じですが、見慣れた景色もちょっと違うアクセントが付いただけで嬉しくなります。

 狭い行動範囲の中で、何とかブログネタをみつけようと思っていますが、面白みに欠けるのは辛抱してください。

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東海道9.

2024-11-18 | 京都へ、京都から

 又小川さんの地図からの借用ですが、中央青線が東海道(三条通)で、縦に流れてる細い川が白川です。

 民家の玄関横に木柵で囲まれた古い三条通の道標が有りました。(地図の三条通道標)

いつの頃の物なのか判りません。

 ここで東海道は地図にあったこの白川を跨ぎますが、白川は志賀越え道の方から流れてきて(以前紹介した志賀山越え9.で、北白川天神宮の前に架かる萬生橋の下を流れていましたね)、明治になって出来た疏水に一旦は南禅寺舟溜辺りで合流し、新宮道辺りで疏水から別れて元の経路を流れているようですので、写真の白川の水は、東山から流れてくる水ではなく、ほぼほぼ琵琶湖疏水の水すなわち琵琶湖の水ですね。

 ここは京都市営地下鉄東西線東山駅の出口辺りですので、岡崎の美術館などへ行く時はここで降りて、白川橋手前を左折して行ってました。

 左折してすぐにあるこの店は、京都南座に接して店を構える1819(文政21)年創業の「祇園饅頭」の工場直営店ですので、この民家の奥で作ってる所が少し見えます。

いつもここでおはぎや赤飯を買って帰るのが、芸術を楽しんだ後のもっと大きな楽しみでした。

私がもし商売するなら理想は、こういう小さな時流に流されない堅実な商売をするお饅頭屋さんでしたが、最近はこういう店にも人が並ぶようになっています。

 土曜日朝9時ころ自転車で出町を通ったら、ふたばの豆餅を買う行列が、早くも河原町通りの向かい側まで出来ていました。

日本人も並ぶの好きなんですね、なんかニュースで見ていた戦中戦後の配給に並ぶ行列を思い出すので、私は長い行列に並ぶのは好きではありませんが、京都は町中行列だらけになってます。

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東海道8.

2024-11-15 | 京都へ、京都から

 友達の友達で、最近面白いのでそのFacebookを愛読してる、一応友達でもある小川君、昔テレビ会社の売れっ子ディレクターだったこともあってか、Facebookにあげる地図や写真が綺麗です。

滋賀県内の中山道や東海道を巡ってるので、了解を得てその地図をここで借りることにしました。

 左の三条大橋を出発して、青線が東海道です。

 三条大橋を出発してすぐの北側にある檀王法林寺(ダンノウホウリンジ)は、「ダンノウ」の名で親しまれてるお寺です。

江戸時代前期に再興されてここにあるので、東海道の入り口として繁栄したのかもしれません。

 法林寺の向かい少し南に、旧京都市立有済(ユウサイ)小学校の校舎が残ってますが、この屋上に火の見櫓・太鼓望楼(タイコボウロウ)が見えます。

1876(明治9)年に造られ、1937(昭和12)年に校舎を鉄筋コンクリートにする時に、この屋上に移築されたそうで、今では京都の小学校で太鼓望楼が残ってるのは、ここだけだそうです。

 京阪電鉄京津線が地上を路面電車のよう走ってた頃はごちゃごちゃしてた三条通・東海道は、電線も地下化して、今は比較的すっきりしてますが、その分普通の道になってます。

 北側に、茶懐石で有名な辻留の本店が有りました。

ただの民家にしか見えませんが、ここにあったのですね。

 最近家内の本棚を整理していて見つけた辻嘉一著「料理のこつのコツ」昭和51年版婦人画報社1200円、他にも「料理のお手本」もあったので、私は新婚時代から辻留流の料理を食べていたのかもしれません、違うか。

 三条通から北に見える本山要法寺、富士門流の日尊を派祖とする日蓮本宗の本山ですので、大きいお寺です。

日蓮宗は色々分かれていて、難しいですね。

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75.虎屋秋の彩

2024-11-13 | 菓子たくさん

 日本2大茶会と言われてる光悦茶会が、今日まで京都鷹ヶ峯の光悦寺で行われていますが、秋はお茶会のシーズンですかね。

 久しぶりの菓子たくさんも、74回目になりました。

今回は短い秋をしのんで、虎屋の「秋の彩」。

お茶会用のお菓子だと思います。

 東京の虎屋で食べてるブログを最近読みましたが、虎屋は東京ではもっと高いですね。

この「秋の彩」も和菓子としては高いですが、まあ虎屋と思う分も含めてですが、美味しいです。

 

 最近私のブログにイイネをしてくれてる人々が出てきて、そのブログを読ませてもらう機会が増えましたが、話題も写真も私より数段高レベルのブログばかりで、面白い反面やや落ち込みますね。

私も努力しなければとは思いますが、私のブログはコメントが面白くて持ってるような気もしてますので、皆さんも努力してコメント寄せて下さい。

   他力本願、他力本願!

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東海道7.

2024-11-10 | 京都へ、京都から

 1590(天正18)年に架橋された日本で一番古い石柱橋である三条大橋を渡り、一歩江戸に近づいた所の写真です。

三条通の東海道は、電柱も地中化されて、京阪電車も京津線も地下に潜ったので、まっすぐ広々と延びていますし、京阪三条周辺はだだっ広くなりました。

ここや、ブラタモリでも紹介されていた京阪淀駅周辺の開発整備にも、私の珉珉好きの同級生が関わっていたことを知りました。

 三条大橋北東角に建つ「駅伝発祥の地」の碑です。

先日のNHKブラタモリ「東海道57次」のオープニングもこの前から始まってましたが、その時はこの碑の説明はなかったですね。

 遷都50周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競走」が1917(大正6)年4月27・28・29日の3日間にわたり開催された時の、スタートはここ京都三条大橋だったので、それから100年を記念して建てられた碑です。

 昔は三条京阪駅前広場は待ち合わせ場所で、懐かしい伝言板なんかも有りました。

 京阪電車の1987(昭和62)年の地下化や、出町柳までの延伸に伴い、この高山彦九郎皇居望拝像もやや孤立した感が有ります。

 高山彦九郎(1747~1793)は上洛する度に、ここ三条大橋で京都御所に向かって拝礼したそうですが、勤王の志士達は彦九郎を心の鑑と仰いだそうで、もひとつわけが判りません。

 元々は1928(昭和3)年に像は建てられたのですが、戦時中の金属供出でつぶされ、その跡に左の徳富蘇峰(トクトミソホウ)筆の「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」の石碑が建てられていました。

1961(昭和36)年には、この像が再建されたのですが、中学生になったばかりの私は、この建立にひと悶着があったことは何となく覚えています。

 

 ニュージーランドに日本国内で完敗したジャパン、欧州遠征してフランスにも今朝は完敗、世界ランクは今は15位以下の実力しかないのでしょうね。

  巻き返してほしいですよ!

コメント (2)
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