島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

東海道25.

2025-03-12 | 京都へ、京都から

 小川さんから借用の地図、私には解りやすく重宝しています、ありがとう小川さん。

 名神高速道路の京都東インター付近で、国道1号線や湖西道路への分かれ道辺りを青線の旧東海道は走っていることが、一目瞭然です。

 大津へ向かう旧東海道から左に行く分かれ道に、大きな 小関越(コセキゴエ)・三井寺観音道 の道標が有りました。

横には常夜灯もある立派な道標は、1822(文政5)年に定飛脚問屋京都江戸大阪三店が建立したものです。

 この道を行くと、京都から三井寺(園城寺オンジョウジ)へお詣りする近道でも有りますし、大阪~奈良から西近江に行く北国海道(西近江路)への近回りにもなります。

この三叉路からはもう滋賀県です、ここには立派な縁台のある道晴茶屋(ドウハレチャヤ)もあったようです。

 普通の家の前に、車石の大きな看板が揚がってました。

 車石の説明が絵付きで描かれていますし、その下には車石まで置いてありました。

 今はこの旧東海道マップ看板の一番下ぐらいにいます。

この後国道1号線の陸橋を渡り、地図のように進みますが、この写真を撮りに行ったのは昨年の7月です。

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東海道24.

2025-03-10 | 京都へ、京都から

 前回から少し進むと山科廻地蔵に行き当たりますので、その辺りの拡大地図に番号を振って、順に紹介します。

 地図の印です。

左の石碑にある十禅寺はここを入って行きますが、右の電柱横の小さな石碑に人康親王(サネヤスシンノウ)墓とあるように、十禅寺の奥に前回紹介した人康親王の宮内庁治定の墓が有ります。

 もう山科は桜が咲いてるのかと思わないでください、この写真は天皇陵巡りで訪れた時の写真を使っています。

 の山科(四宮・山科廻)地蔵のある六角堂です。

 山科地蔵は、小野篁(オノノタカムラ)(802~853)が1本の桜の大木から852年に造った6体の地蔵菩薩像のうちの1体です。

最初は伏見六地蔵の大善寺(ダイゼンジ)にあったのですが、第77代後白河天皇(1127~1192)の願いにより、街道の出入り口六ケ所に1体ずつ分置され、以後山科地蔵は東海道の守護仏になったようです。

 3の山科地蔵前の井戸です。

ここに彫られた「通」は、江戸時代飛脚の通行手形に使われていたようですし、ここは飛脚たちの中継点や休憩所としても使われていたようです、知らんけど。

1872(明治5)年に飛脚問屋が集まって出来た陸運元会社として創業した日本通運(ニッポンツウウン)、通称日通のマークは通行手形が元の図形ですので、井戸に彫られたのと同じ「通」ですね。

 は徳林庵(トクリンアン)、人康親王の末裔で南禅寺第26世雲英正怡(ウンエイショウイ)禅師が1550年に開創した寺ですが、門も閉まっていました。

 門の傍らに、この人康親王と蝉丸(坊主めくりでこれを引いたら全部チャラになるので知ってる)の供養塔が有りましたが、二人は同一人物だったとの説も有ります。 

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東海道23.

2025-03-08 | 京都へ、京都から

 山科駅前から旧東海道を東に向かっているのですが、今回は地図青線の諸羽神社と青✖の人康親王墓を天皇陵巡りのように紹介します。

 諸羽神社(モロハジンジャ)へは旧東海道沿いのこの鳥居をくぐり、京阪電車京津線の踏切を渡って行きます。

 天孫降臨の際に、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に従った二神を祀っているので、両羽(モロハ)からその社名があるようです。

 境内が平安時代第54代仁明天皇(ニンミョウ)第4皇子人康親王(サネヤスシンノウ)(831~872)の山荘跡になっているので、今のこの辺りの地名四宮(シノミヤ)の由来になっています。

 境内には琵琶の名手だった人康親王がこの石に腰かけて琵琶を弾いたと言う「琵琶石」が有りました。

ここは6年ほど前に天皇陵巡りで訪れていたのですが、その時も歩き疲れていましたが、さすがにこの石に腰かけて休むのはやめておきました。

 ここからすぐ近くの十禅寺(ジュウゼンジ)の東に、人康親王墓が有ります。

30歳にして両目を患って出家、法性(ホッショウ)と号しここ山科の山荘に隠棲した人康親王ですが、盲人で琵琶を得意としていたので、江戸時代には座頭・琵琶法師の祖とされています。

 というわけで、「京都へ、京都から」が「天皇陵巡り」のようになった、あまり面白くない今回です。

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京阪電車:京津線・石山坂本線

2025-03-05 | ノンジャンル

 先日の大津宿の取材には、京都市営地下鉄と京阪電車で行きました。

京都市営地下鉄から御陵駅で京阪電車京津線に乗り換えますが、山科駅からは地上に出てきますので、先頭車両に乗っています。

 逢坂山のトンネルを越えて、61‰(パーミル;1000ⅿ進んで61m上がる勾配)という限界の倍ぐらいの坂を下ります。

 途中逢坂山手前の大谷駅は、日本の普通鉄道では日本一の急勾配(40‰)にある停留所ですので、急勾配の線路に合わせてホームも斜めになってますが、ホームの木のベンチの脚は、長さを変えて水平に座れる工夫がなされていました。(漫画みたいですが、納得しますね)

 前回の取材からの続きですので、終点前の上栄駅で下車です。

上栄駅は無人駅ですので、「ICOCA」はどうするのか下車時に運転手さんに尋ねると、何も知らない爺さんに教えてくれたのがこの駅の出口のこの機械、ピッとして降りれました不正は難しいのですかね。

 駅を出てすぐにあった、この駅トイレか公衆トイレか、古いですがまあまあ綺麗です。

歩き出す前に、することは忘れません。

 浜大津から京都に向かう4両編成の電車が坂を上がってきました。

この辺りは自動車も走ってる併用軌道です。

 通常路面電車は全長30ⅿ以下と定められてるようですが、この電車は1両16.5ⅿなので4両編成なら60ⅿ以上になりますが、特例として認められてるようです。

 路面電車の2両編成はあちこちで見た気がしますが、30ⅿ以下だったんでしょうね。

 帰りは京阪膳所駅から石山坂本線に乗って浜大津まで行き、そこからまた京津線で帰りました。

 この線はまだ大津駅も無かった昔は、浜大津と国鉄の旧東海道線膳所駅を結ぶ、重要な貨物輸送線だったようですが、今はラッピング電車が沢山走っていました。

 デイサービスから家内が帰る前に買い物もして帰ろうと、山科駅で降りましたが、山科にも「珉珉」が有りましたので遅めの昼食。

 ジンギスカンは少し味が昔と違った気がしましたが、餃子はやっぱり「珉珉」が美味い! 思わず追加も頼んで、薄く柔らかい珉珉餃子の味を楽しみました。

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大津まで

2025-03-02 | ノンジャンル

 暖かさに誘い出されたのか、気分の落ち込みを克服するためか、「京都へ、京都から」の三条口から旧東海道の取材に、大津まで電車で行ってきました。

 大津宿近くの商店街が「100円商店街」のお祭りをしてたせいか、人が沢山出ています。

 明治29年創業の旧東海道沿いの鶴里堂(カクリドウ)買った100円の羊羹を、その場で食べて歩き出しました。

昔比叡山から望んだ大津の里が、細長く弓形で、鶴が翼を広げて飛び立つ姿に似ていたので、鶴里堂と命名されたそうですが、羊羹は美味しかったですよ。

 大津祭は一度は観たいと思っていたお祭りですが、商店街を歩いていて、大津祭曳山展示館(150円)が有ったので入りましたが、入場者は私一人だけでした。

実物の曳山も飾ってあって、綺麗な分かりやすい展示でした。

 粽も飾ってありましたし、大画面ビデオで祭の様子を観てると、粽を撒いていました。

京都の祇園祭でも、子供の時は粽を山鉾から撒いてくれていて、それが楽しかったのですが、今は危険なのか撒いてません。

受付の女の子に、「大津祭では今でも粽を撒いてくれるのですか?」と尋ねると、「場所は区切りますが、撒いていますと」優しく答えてくれましたので、嬉しくなりました。

やっぱり観に行きたいお祭りですね。

 歩いてると丁度いい天気、途中でボランティアのように家を開放して、車石や大津の歴史を紹介してる家に入ったら、80歳過ぎのお爺さんが親切丁寧に教えてくれました。

最後は「木曽殿と背中合わせの寒さかな」で有名な、木曽義仲と松尾芭蕉の墓のある義仲寺(500円)にお参りして京阪膳所駅から帰途につきました。

 これで気分は少し復活したと思います、この詳細はゴールデンウイーク頃の「京都へ、京都から」でお楽しみください。

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