前回から少し進むと山科廻地蔵に行き当たりますので、その辺りの拡大地図に番号を振って、順に紹介します。
地図の印1です。
左の石碑にある十禅寺はここを入って行きますが、右の電柱横の小さな石碑に人康親王(サネヤスシンノウ)墓とあるように、十禅寺の奥に前回紹介した人康親王の宮内庁治定の墓が有ります。
もう山科は桜が咲いてるのかと思わないでください、この写真は天皇陵巡りで訪れた時の写真を使っています。
2の山科(四宮・山科廻)地蔵のある六角堂です。
山科地蔵は、小野篁(オノノタカムラ)(802~853)が1本の桜の大木から852年に造った6体の地蔵菩薩像のうちの1体です。
最初は伏見六地蔵の大善寺(ダイゼンジ)にあったのですが、第77代後白河天皇(1127~1192)の願いにより、街道の出入り口六ケ所に1体ずつ分置され、以後山科地蔵は東海道の守護仏になったようです。
3の山科地蔵前の井戸です。
ここに彫られた「通」は、江戸時代飛脚の通行手形に使われていたようですし、ここは飛脚たちの中継点や休憩所としても使われていたようです、知らんけど。
1872(明治5)年に飛脚問屋が集まって出来た陸運元会社として創業した日本通運(ニッポンツウウン)、通称日通のマークは通行手形が元の図形ですので、井戸に彫られたのと同じ「通」ですね。
4は徳林庵(トクリンアン)、人康親王の末裔で南禅寺第26世雲英正怡(ウンエイショウイ)禅師が1550年に開創した寺ですが、門も閉まっていました。
門の傍らに、5この人康親王と蝉丸(坊主めくりでこれを引いたら全部チャラになるので知ってる)の供養塔が有りましたが、二人は同一人物だったとの説も有ります。