島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

30?敏達天皇皇后廣姫

2018-04-25 | 天皇陵巡り
   
 滋賀県の関ケ原から長浜へ向かう道、昔の北国𦚰往還(ホッコクワキオウカン)を車で走っていると、米原辺りでこの石柱が目に入りました。
 日本古代豪族の息長氏(オキナガウジ)は、この辺りを中心に栄えていたと言われる謎多き氏族らしいです。
   
 第30代敏達天皇の最初の皇后が、この豪族息長氏出の息長氏真手王(オキナガノマデノミコ)の娘比呂比売命(ヒロヒメノミコト)、日本書紀では廣姫(ヒロヒメ)です。
 畑の横の陵道の向こうに、小さな円丘の陵が見えてきました。
   
 第30代敏達天皇は廣姫との間に、押坂彦人大兄皇子(オシサカノヒコヒトノオオエノミコ)・逆登皇女(サカノボリノヒメミコ)・菟道磯津貝皇女(ウジノシツカイノヒメミコ)の3人をもうけています。
 ちょっとした家の庭の林、程度の陵です。
    
 敏達天皇皇后廣姫息長陵(オキナガノミササギ)(滋賀県米原市)と、新しいですがワープロ文字で印刷された制札でした。
ここは村居田古墳(ムライダコフン)と言う、昔は前方後円墳であったようですが、廣姫の時代とは年代的には合わないようです。
  
 裏から覗いてみると、中央が盛り土してある程度の小さな林にしか見えません。
近くにいる人に尋ねると、「横の古墳からなんか掘り出した物を、そこに埋め戻しただけの墓だよ」との答え、聞き流しましたが、そんなものなんですね。
   
 陵の隣にあるお寺との境にあった小さな円墳横に、「息長陵付属地」や「息長広姫陵古墳群」の石柱も建っていましたので、ここから掘り出して陵のような形にしたのかもしれません。
   
 元の道に出てみると、目の前には伊吹山がそびえていました。
 ほぼ日本列島の真ん中にある滋賀県と岐阜県の辺りに栄えていた豪族がいて、その娘が中央の大王の皇后にはなりましたが、早くに亡くなり、後妻の皇后はもっと強い豪族蘇我氏から、その後の天皇も蘇我氏系だったためか、中央の大和から離れた実家の地に、夫から離れて埋葬されたのですかね。
それでも、その孫が天皇になり(第34代舒明天皇)、今の天皇家ともつながったので、明治~昭和になってから、新たに陵も整備された感じですかね。

    返事
花水木さん:私の母も兄弟姉妹多く、
    その兄姉のうち3組が同じ家の兄弟姉妹と結婚しています。
     丈夫な人はたくさん子を産んでいますが、
    つい最近まで、出産で親子死亡もたくさんあったようですね。
     娘も無事男の子を産んでくれてほっとはしています。

コメント (2)
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