島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

41≠P持統天皇

2018-11-13 | 天皇陵巡り
   
 鸕野讃良皇女(ウノノサララノヒメミコ)は、父38≠P天智天皇で母は遠智媛(オチノイラツメ)ですので、前回の40≠Q大田皇女の同母妹になります。
 姉の大田皇女と一緒に、叔父にあたる大海人皇子の妃に13歳でなり、草壁皇子(クサカベノミコ)を産んでいます。
    
 姉の大田皇女は早くに亡くなっているので、壬申の乱後に夫の大海人皇子が第40代天武天皇になった時に皇后になり、夫の皇親政治を助けると共に、自分の病弱な息子草壁皇子をなんとか次期天皇にしようと努力しました。
    
 夫天武天皇の崩御(686年)後は、皇后のまま称制を敷いて政治にあたり、姉大田皇女の優秀な息子大津皇子を、謀反の疑いで抹殺してまで、我が息子草壁皇子を天皇にしようと思っていましたが、689年息子草壁皇子が27歳で亡くなった為、皇后は即位して第41代持統天皇(ジトウ)(645~702)(在位690~697)になりました。
    
 もちろんこれは、最愛の息子草壁皇子の忘れ形見、すなわち我が直系の孫である軽皇子(カルノミコ)を次の天皇にするための繋ぎ役をしようとしたのであって、少々目の上のたんこぶであった夫天武天皇の息子高市皇子(タケチノミコ)が薨去した後は、速やかに若き孫軽皇子を15才で第42代文武天皇として即位させました。
    
 持統天皇は藤原京(奈良県橿原市と明日香村)を造営し、この大和三山(耳成山・畝傍山・天香久山)に囲まれた都は、平城京や平安京よりも大きく、一代の天皇の宮ではなく、三代の天皇に続けて使用されました。
 小倉百人一首の2番目は、持統天皇の
      春すぎて  夏きにけらし  白妙の
               衣ほすてふ  天の香久山
藤原京にいる時に詠んだのですかね。
     
 持統天皇陵はこの檜隈大内陵(ヒノクマノオオウチノミササギ)(奈良県明日香村)で、夫である先代の第40代天武天皇と共に葬られています。
持統天皇は天皇としては初めて火葬された人で、銀の骨壺に遺骨は納められていたそうです。
 1235年盗掘にあって、この骨壺がさらわれてしまった事は、藤原定家の「明月記」にちゃんと書かれていますが、それでもこの陵は真陵ではないという説も有力です。
 この持統天皇記で日本書紀は終わっています。
高校日本史で学んだように、次の日本の歴史書は「続日本紀(ショクニホンキ)」になります。

     返事
花水木さん:忙しい時には、読んでもらっているだけで充分ですよ!
     私はどっちかと言うとシンプルに生きてる気はします。

コメント
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