奈良市の北、すなわち平城京から少し北の丘陵地にも、古墳や陵がたくさん並んでいます。
東大寺の北西方向にある鴻ノ池運動公園の駐車場に車を停めて、元明・元正・聖武天皇陵と共に、藤原宮子(フジワラノミヤコ)の墓と言われる佐保山西陵(サホヤマノニシノミササギ)の七ツ石(ナナツイワ)を訪ねました。
この陵はその横に出来た遊園地、写真の雪岩山で有名だった奈良ドリームランドの開発に伴って、破壊されたようです。
22年前に、そこで遊ぶ40代アベックが娘に写真を撮られていましたが、その頃から寂しくなりかけていた奈良ドリームランドは、12年前に閉園となっていました。
やっと見つけた、この汚れた看板だけの七ツ石、第42代文武天皇の妃である藤原宮子(~754)は藤原不比等の長女ですので、まあ平民です。
どれが七ツ石なのか?全てで七ツ石と言うのか不明ですが、左の変な形の石が墓陵石らしいかもしれません。
宮子の父である藤原鎌足の次男不比等も、実は天智天皇の御落胤という貴の説もありますし、宮子自身は紀州の海女であり、文武天皇がその美貌を見染てしまい、海女ではちょっとと言うことで、不比等の養女にしてから文武の妃にしたという賤の説もあります。
なんとも寂しい史蹟周辺です。
宮子の最大の功績は、文武天皇の後継ぎになる男子首皇子(オビトノミコ)(後の聖武天皇)を産んだことです。
その後藤原一族が娘を天皇に嫁がせ、次の天皇の外戚になるという形を作った、最初の娘が宮子です。
七ツ石の隣にあった黒髪山稲荷神社。
首皇子を産んだ後、宮子さんは引きこもり状態(うつ病?)なってしまったようで、737年50歳頃にやっと天皇になってた我が息子聖武と再会したぐらいです。
その後、夫文武天皇が亡くなってから50年近く経って、70歳ぐらいで亡くなってここに葬られたようです。
返事
花水木さん:「27歳って儚げな感じですよね」と書かれてますが、
「儚い」はなかなか読めませんでした。
人に夢と書いて「はかない」と読むんですね。
昔墓地の宣伝で、「墓の無い生活は、はかない」というのが有りましたが、
「はかない」を「墓無い」と書くのならわかりますが、
「儚い」と書くのは、ちと寂しいですね。
「儚」と書いて「きぼう」と読みたいと、夢のような青臭いことも考えました。
私は26歳で結婚したので、27歳は新婚生活中でしたが、
確かにやや儚げでしたね。