左の道は夫に、右の道は妻の光明皇后陵に続いています。
安宿媛(アスカベヒメ)(701~760)は藤原不比等とその後妻の県犬養橘三千代(アガタノイヌカイノミチヨ)との間に産まれた女子で、いわゆる藤原4兄弟とも兄妹になります。
同じく異母姉(宮子)の子供である首皇子が皇太子の時に、同い年同士で(16歳)結婚し(甥と叔母の結婚)、首皇子が第45代聖武天皇になったので、夫人となりました。(その頃は、皇女でないと皇后にはなれません)
阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇)と基王(モトイオウ)を産みましたが、以前にも書いたように基王は1歳にならずして亡くなりました。
長屋王の変直後に皇后になりましたので、皇女以外が皇后になった先例を付けたことになり、以後藤原氏から天皇に嫁いだ子女が夫人ではなく皇后になれるようになりました。
精神的に弱かった聖武天皇を助け、夫婦共に仏教を深く信じて、東大寺や国分寺の建立を目指しましたし、藤原4兄弟の死の後は、甥である藤原仲麻呂と共に政治にも結構口出ししたようです。
陵印も夫婦二人の陵名が書かれてるだけです。
私が小学生の夏休みにいりびったていた母の実家には、20歳近く年上の従兄弟が残した皇国史観一杯の戦前の本がたくさん残っていたので、それを読んで育った私は、けっこう右翼的思想になっていました。
確かその本の中に、癩病患者の膿を吸って治してる光明皇后の絵入り物語があったと思いますので、歴代皇后の中でも有名人です。
夫の聖武天皇が亡くなった後も、天平応真仁正皇太后(テンピョウオウシンニンショウコウタイゴウ)なんてたいそうな名を付けて、娘の第46代孝謙天皇を補佐しました。
60歳で亡くなり、夫の陵の横のこの佐保山東陵(奈良市法蓮町)に葬られました。
返事
花水木さん:奈良時代の終わりの方は、
これからも紹介しますが、結構血なまぐさかったようですね。