大原から途中を越えて滋賀に行く道、最近は休日になったら走ってるような気がしてます。
その大原へ行く手前に野村別れと言う、静原・鞍馬へ抜ける分かれ道が有りますが、そのまた少し手前の道端にこの道標が有ります。
この道標に従って、少し道を登って行きます。
この辺りは小野と言うらしいですが、10分ほど登って行くと、なんか少し神秘的な感じのするする場所に到着。
隣の小さな社は、やはり不幸だと思われていた親王の御霊を祀る小野御霊神社です。
惟高親王(コレタカシンノウ)(844~897)は文徳天皇と紀名虎(キノナトラ)の娘静子(シズコ)との間に産まれた第1皇子でしたが、なにせ第4皇子が藤原良房の娘明子(アキラケイコ・メイシ)の産んだ惟仁親王(コレヒト)(後の第56代清和天皇)だったので、皇太子になったのは7歳の第1皇子惟高親王ではなく8ヶ月の惟仁親王の方でした。
父文徳も出来れば後継ぎにと推していた第1皇子でありながら後継ぎになれず、あまりでしゃばると良房に殺されるかもしれないという境遇で、惟高親王はここ大原小野以外にも色々な場所に隠棲したとありますが、在原業平とも親交があったようで、歌の世界にも逃げていたのかもしれません。
ここは宮内庁が治定した惟高親王墓ですが、滋賀県湖東の山の奥にある木地師の里近くには、惟高親王陵と言われてる墓があるそうです。
つい最近知ったので、近くまで行ってみましたが、山の中の道の駅のおばさんに尋ねたところ、「冬はいかない方が良い」と言われて断念しました。
この隠棲地で、巻物の形からロクロで木を削る方法を思いついた惟高親王を、木地師の祖とする伝承があるようです。
返事
花水木さん:写真で一番若かった私も70才越え、
父母は鬼籍に、叔母は元気ですが施設に入所です。
これと同じような写真を私も子供たちと撮って、
子供たちは孫と撮った同じような写真を送ってくれます。
時代は巡り、今日は「男と女人生最良の日々」を観てきました。
ダバダバダ ダーダーダ ダバダバダ~