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E・コッカーと戯れる浪費派リーマンのゆるい生活

ボクと「孤狼の血」と昭和63年夏、の巻

2018-05-22 13:19:10 | 映画
呉や広島でロケをした東映映画の「孤狼の血」。

先日、観に行った。





これに乗って映画館に向かうわけだ。
広島っ子にはどこかすぐわかるね。




映画はざっとこんな感じ。


あらすじ
昭和63年、暴力団対策法成立直前の広島。
所轄署に配属となった日岡秀一は、暴力団との癒着を噂される刑事・大上章吾とともに、金融会 社社員失踪事件の捜査を担当する。
常軌を逸した大上の捜査に戸惑う日岡。
失踪事件を発端に、対立する暴力団組同士の抗争が激化し…。




で、なかなか面白かった。

ただ、ちょっとグロすぎる感じもあったなあ。

奥さんと来なくてよかったよ。

「リアルとグロはちと違う」と思うんだけど、深作の「仁義なき戦い」を必要以上に意識しちゃったのかな?


とはいえ、十分合格点。

ロケ地の風情が、まさに昭和の広島だ。ふ




こちとら自慢じゃないが、歓楽街を何十年も無駄に飲み歩いているので、ドンパチの撮影してる現場が手に取るように分かる(笑)



それに広島弁も相当に自然だった。違和感なくこっちに飛び込んできたね。




そして何より、ボクの身に沁みたのは、その時代設定だ。

昭和末期。昭和63年の春から夏にかけての広島。

そこはまさに、ボクがサツ回りとして本格デビューした「街」なんだよね。


「ヨチヨチ歩き」を始めたのが前年。

サツ回りも2年目も迎え、ある程度現場も踏んだころである。

この映画に描かれている空気感や温度は、よーくわかる。



映画を観ながら、「ああ、あの頃の広島だなあ」ってしみじみした。


当時の歓楽街は極道の「博覧会」。

発砲事件もしばしばあった。

ずっとサツに詰めて一緒に無線を聞いてるから、現場に着くのも、サツや救急とほぼほぼ一緒。

撃たれた極道が呻き声を上げてる姿を何度も見たもんだ。

しかしながら委細かまわず写真撮ったり、さらに関係者にコミかけたりするもんだから、そいつの「お仲間」に蹴り上げられたり、殴られたり。

いやあ、貴重な経験をさせてもらったよなぁ、うんうん。



そして63年の夏だ。

大上たちが極道の間を這いずり回ってるころ、

若干23歳のHAPPYMANもまた、蠢いていた、ぼろ雑巾のようになりながら。


これが起きたのだ。

「広島駅新幹線ホーム乱射事件」(平成元年 警察白書

「63年7月12日、乗降客で混雑するJR広島駅新幹線ホームにおいて、暴力団幹部らが、以前から対立していた暴力団組長らとけん銃を撃ち合い、一般市民3人が巻き添えとなって重傷を負うという事件が発生した。このように、暴力団は、一般市民が巻き添えとなるおそれのある場所においても平然と発砲するなど、社会に多大の危険と不安を与 えている」






マジか!と。ありえんやろ、こんなこと!

当初、広島駅で爆弾が破裂した、との一報で、県警本部から現場に急行。

「現着」が早いにもほどがあるので、規制線なんかそもそもない。

「俺の後に道ができる」ではなく、「俺の後に規制線が張られる」ってお話だ(笑)


しかしまあ、考えてみてほしい。
まったくもってフツーじゃないわけよ。

ざくっと申しますとね。

新幹線で広島に戻ってくる暴力団組長を、対立する暴力団5人がホームで待ちうけ、拳銃25発を発射。

極道1人、一般人3人が怪我をしたってお話だ。


25発も撃ったんだよ。そんなの西部劇でもないだろう。

それも新幹線ホームですよ。
夕方、いっぱい利用客がいるの。
で、撃たれた方も応戦したとかしないとか。
おい、内戦かよ。

結果、不眠不休の日々がスタート。

言えないような場所に潜り込み、多くを語れないような方面にも話を聞いた。

撃たれた瞬間って、痛いんじゃなくて「熱っ!」っ感じなんだって。
そんなの知って、なんの意味がある(笑)

今なら、若い人たちには絶対にやらせないけどね。



極道については、「必要悪」だなんていう声もある。

しかし、私は真っ向から反論するし、その存在を1ミリも認めない。

そして、時折問題となる極道とサツの癒着にも、警察をはっきり断罪する。


この映画をご覧になった大学教授さんから「出てくる記者さんを見て、HAPPYMANさんを思い起こしました」と連絡があった。

警察と極道の癒着を追及する、中村獅童演じる地元新聞社の記者である。

それはまったくの買い被りで、その当時のボクは真実を見透かすような眼力もなく、場数も足りず、ただただおろおろしてた。


ただ、「奴らを知らなきゃならない」「世の中の裏側を見つめたい」「小さな声に耳を傾けたい」と、そう思っていたのは事実だ。

30年近く経ち、現場を預かる立場になったとき、部内向けに、その頃の、正確にはその一年前の自分を書いた。


【ボロアパートで】

 街を歩こう。何かが転がっているに違いない。それが今回のお話。ただ、やはり相も変わらず昔話だ。申し訳ないがおつきあいを願いたい。

 昭和62年春、広島中央署でサツ回りを始めた。もう辛くて、辛くて。署がどっちに向かって動いているか、まったくわからない。署を離れるのが怖いから、街ネタも書けない。そんな私にできるのは、当時、ひんぱんに発表されていた「ビラ張り逮捕」の夕刊10行だけである。

 ある日、県警キャップから雷が落ちた。「毎日同じことを書いて面白いんか。ビラ張りの裏に何があるか、知りとうないんか。2週間やるけえ調べてこい」。ビラ張り行脚が始まった。

 ただ一人だけ懇意にしていた防犯課長から、売春の女元締の住所を聞いた。彼女がやっていたスナックに日参。最初は相手にされなかったが、よほど思い詰めた顔をしていたのだろう。ビラ張りやら客引きやらを紹介してくれた。

 ビラ張りで十数回逮捕されてきたのがヤギさん。そう呼ばれるのは家畜のヤギに似ているからで、すごみも渋みもない。もともとは組員だが、本人が「根性がないんよ」と自嘲するだけあって、業界をはじき飛ばされた。不始末もあったのだろう、指も3本ない。いかにも出来の悪そうなお方だった。

 戦後すぐに建ったと思われるボロボロの木造アパートの2階が彼の部屋だ。夕方から夜中までビラを張って朝まで飲むから、悪臭漂うその部屋を訪ねるのは彼が起きる午後3時ごろ。部屋にたどり着くまでに、必ず廊下で女の子に会う。

3歳ぐらいだった。腰にひもが巻かれ、その一端が柱に縛り付けてある。階段から転げ落ちないようにだ。ヤギさんいわく母親は風俗嬢。彼女もこれまたヘタを打ち、昼間から苦界に身を沈めているわけである。

 女の子はひとりぼっち。何度もヤギさんを訪ねる私になついてくる。階段に座り、おみやげのお菓子を一緒に食べるようになった。しばらくするとヤギさんが起き、共同便所で用を足すため廊下に現れる。3人で「おはよう」と言い合う毎日。私の記者生活はこのボロアパートから始まった。

 「自信がない。辞めたい」と下を向く私に「石の上にも三年。頑張りんさい」と励ましてくれたヤギさん、客引きのヒロシ、そして女元締のババア。「アンタらこそ頑張れ」と言い返していたが、本当はありがたかった。その後、何年にも及ぶサツ回りの中で、数少ない特ダネのいくつかは彼らから知らされた情報がもとである。

 山口に転勤する際、ソフトボール大会を開いてくれ、東京から帰ってきた時は歓迎会をやってくれた面々はその後、自ら命を絶ったり、薬物依存の末に姿を消したり。付き合いは薄れた。

 ただ、腰にひもが巻かれた女の子を見たときの衝撃は今も忘れられないし、彼らの笑顔も胸に残る。その後の方向性はこの辺りで定まったのだろう。当時のキャップに感謝している。






「孤狼の血」の大上は大上で、彼なりの「正義」がある。

そして俺たちも俺たちなりの正義や価値観を抱えてやってきたわけだ。

キャリアを重ねるうちに、組織に生きる中で、もちろん修正も必要だろう。

ただ、変わらないもの、変えてはならない初心ってものも、またあるんじゃないだろうか。


この63年の7月に起きたのは、乱射事件だけではない。

中国自動車道のトンネルで多くの命が失われ、豪雨と鉄砲水が県北のムラの暮らしと希望を奪った。

悲嘆と喪失感に支配されたそのいずれの現場にも、ボクはなぜか最先着した。たった1人で立ちすくみ、そして全身全霊で這いずり回った。

まさに方向性は定まってしまったのだろうと思う。


私にとってもあまりに「過剰」な夏を描いたこの作品。

そこに触れながら、あらためてそう感じたわけです。


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