カトリック教会の神父による集団児童虐待をボストンの新聞が記事として掲載した実話「スポットライト」は、同年にアカデミーを受賞した「レヴェナント」や「マッドマックス」などと比較すると日本では注目を浴びなさそうな映画でしょう。
一見、地味に感じる映画、しかし内容のスキャンダルの大きさは計り知れないもの。
神父が教区の少年に性的虐待をしていたという、氷山の一角を見つけ出し、その後に膨大な数の被害者と容疑者の存在が発覚し、教会が組織ぐるみで隠ぺいしていた可能性が浮上。
ボストンのローカル記事から世界中へと飛び火していった。
昨今では“スクープ”という言葉は週刊文春に代表されるように、ほとんど芸能ゴシップを指すようになってしまっているが、この映画で狙う“スクープ”は、巨悪を暴き、世の中を激震させるタブーであり、危険すら伴う行為と言えるのかもしれない。
記者の仕事は紛争地で銃弾の雨をかいくぐったり、法廷で熱弁を振るうことも有るが、事件の関係者から情報を引き出し、被害者ひとりひとりに話を聞いて回り、疑惑を裏付けるため膨大な資料を洗い直す、そんな作業でもある。
求められるのは、何度もくじけそうになりながら地道な努力を積み重ねるモチベーション。
試されるのは仕事への矜持であり、追及する信念であり、気持ちを代弁できる力でもある。
派手なアクションや人気先行の俳優で、ハラハラドキドキで進行することを望まず、ただ、地道な作業のすき間から、記者たちの心の内が、怒りや葛藤が、仲間同士の絆が、そしてスクープへの情熱が確かに伝わってくる。
地味で結構、シブくて当然。
だからこそジワジワとカッコよさが沁みてくる。
やはり伊達に作品賞を獲ってはいない。
一見、地味に感じる映画、しかし内容のスキャンダルの大きさは計り知れないもの。
神父が教区の少年に性的虐待をしていたという、氷山の一角を見つけ出し、その後に膨大な数の被害者と容疑者の存在が発覚し、教会が組織ぐるみで隠ぺいしていた可能性が浮上。
ボストンのローカル記事から世界中へと飛び火していった。
昨今では“スクープ”という言葉は週刊文春に代表されるように、ほとんど芸能ゴシップを指すようになってしまっているが、この映画で狙う“スクープ”は、巨悪を暴き、世の中を激震させるタブーであり、危険すら伴う行為と言えるのかもしれない。
記者の仕事は紛争地で銃弾の雨をかいくぐったり、法廷で熱弁を振るうことも有るが、事件の関係者から情報を引き出し、被害者ひとりひとりに話を聞いて回り、疑惑を裏付けるため膨大な資料を洗い直す、そんな作業でもある。
求められるのは、何度もくじけそうになりながら地道な努力を積み重ねるモチベーション。
試されるのは仕事への矜持であり、追及する信念であり、気持ちを代弁できる力でもある。
派手なアクションや人気先行の俳優で、ハラハラドキドキで進行することを望まず、ただ、地道な作業のすき間から、記者たちの心の内が、怒りや葛藤が、仲間同士の絆が、そしてスクープへの情熱が確かに伝わってくる。
地味で結構、シブくて当然。
だからこそジワジワとカッコよさが沁みてくる。
やはり伊達に作品賞を獲ってはいない。
昨今、朝霞で誘拐された中学生が2年ぶりに発見された。
自力で逃げ出し、連絡をしてきたという。
世間の論調では「なぜ、今までも逃げ出せなかったのか?」
しかしそれは本人しかわからない、追い詰められた精神状況と恐怖が存在しているのだと思う。
ある日突然誘拐され、7年間監禁され続けた悲劇の女性。
そして監禁部屋で生まれ、外の世界を知らないまま5歳になった男児。
設定だけを聞けば随分とエキセントリックに思えるかも知れない。
そんな母子がついに解放されるのだが、目の前にあらわれた現実の世界は2人を困惑させてしまう。
7年にわたる拉致監禁、誘拐犯との間に生まれた息子、命を懸けた脱出劇と世間からの好奇の目。
数あるゴシップ的要素にも関わらず、地に足を付けた演出で奇妙な環境で普通に生きようとする葛藤を描き出す。
狭い監禁部屋から出たことがないジャックは、テレビを通じてだけ外の世界を覗いてきた。
息子に〈閉じ込められている〉と感じて欲しくない母は、部屋の中が〈本物=現実〉で、画面の中の出来事は〈偽物=フィクション〉だと教え込む。
2人がいる部屋の外には空っぽの宇宙しかなく、出ると死んでしまうとウソをつく。
ところが監禁部屋からの脱出によって母子の世界は一変する。
実は部屋の外には男児の目からは無限(宇宙)ともいえる現実が広がっていて、男児は培ってきた認識やアイデンティティをすべてリセットしなくてはならなくなる。
しかし母が帰還を切望した外の世界は、一度解き放たれると皮肉にも精神的牢獄になってしまう。
2人だけで完結していた監禁部屋にいる限り、社会という膨大な関係性の集積から無縁でいられたから。
失われた7年の重みと他者の存在が次第に母を追い詰めていく。
結果として母も男児も生きるべき世界をゼロから発見し直さなくてはならない。
痛みも喜びも伴うが、未知の物への期待感と新鮮な刺激は一歩ずつでも前に進むことを後押してくれる。
実はこの物語、驚くほどにわれわれが「映画を観る」感覚と似てはいないか。
われわれは映画のスクリーンと向き合い、未知の世界を探索することで世界観を押し広げ、時に内面を見つめ直し、やがて自分自身の物語を見出す。
その〈発見〉こそが映画を観る大きな悦びだとは言えないだろうか?
幼い男児はさまざまな障壁にぶつかりながらも、常に世界を五感で感じ、吸収することをやめない。
その瑞々しさと我々観客の感覚が重なったとき、何か心に小さな奇跡を起こす。
苦難はあろうかと思われる人生だが、一つ一つをクリアして行き、急がなくても良いから、一歩ずつ前に進もう!そんな映画だと思っている。
実はあってはならないこと。
現実誰にでも起こりうること。
そんな予防は、実は普通に暮らしている僕たちの「目」だと思う。感じる「心」だと思う。
昭和な時代に、子供たちに声をかけていた近所のおじさん、おばさん。
それが役立っていたことを切実に感じる。
繰り返さないためには、何気ない変化に気づく大人の目なのかもしれない。
そして震災が起こったこのようなときだからこそ、「心」が必要なんだと思う。
自力で逃げ出し、連絡をしてきたという。
世間の論調では「なぜ、今までも逃げ出せなかったのか?」
しかしそれは本人しかわからない、追い詰められた精神状況と恐怖が存在しているのだと思う。
ある日突然誘拐され、7年間監禁され続けた悲劇の女性。
そして監禁部屋で生まれ、外の世界を知らないまま5歳になった男児。
設定だけを聞けば随分とエキセントリックに思えるかも知れない。
そんな母子がついに解放されるのだが、目の前にあらわれた現実の世界は2人を困惑させてしまう。
7年にわたる拉致監禁、誘拐犯との間に生まれた息子、命を懸けた脱出劇と世間からの好奇の目。
数あるゴシップ的要素にも関わらず、地に足を付けた演出で奇妙な環境で普通に生きようとする葛藤を描き出す。
狭い監禁部屋から出たことがないジャックは、テレビを通じてだけ外の世界を覗いてきた。
息子に〈閉じ込められている〉と感じて欲しくない母は、部屋の中が〈本物=現実〉で、画面の中の出来事は〈偽物=フィクション〉だと教え込む。
2人がいる部屋の外には空っぽの宇宙しかなく、出ると死んでしまうとウソをつく。
ところが監禁部屋からの脱出によって母子の世界は一変する。
実は部屋の外には男児の目からは無限(宇宙)ともいえる現実が広がっていて、男児は培ってきた認識やアイデンティティをすべてリセットしなくてはならなくなる。
しかし母が帰還を切望した外の世界は、一度解き放たれると皮肉にも精神的牢獄になってしまう。
2人だけで完結していた監禁部屋にいる限り、社会という膨大な関係性の集積から無縁でいられたから。
失われた7年の重みと他者の存在が次第に母を追い詰めていく。
結果として母も男児も生きるべき世界をゼロから発見し直さなくてはならない。
痛みも喜びも伴うが、未知の物への期待感と新鮮な刺激は一歩ずつでも前に進むことを後押してくれる。
実はこの物語、驚くほどにわれわれが「映画を観る」感覚と似てはいないか。
われわれは映画のスクリーンと向き合い、未知の世界を探索することで世界観を押し広げ、時に内面を見つめ直し、やがて自分自身の物語を見出す。
その〈発見〉こそが映画を観る大きな悦びだとは言えないだろうか?
幼い男児はさまざまな障壁にぶつかりながらも、常に世界を五感で感じ、吸収することをやめない。
その瑞々しさと我々観客の感覚が重なったとき、何か心に小さな奇跡を起こす。
苦難はあろうかと思われる人生だが、一つ一つをクリアして行き、急がなくても良いから、一歩ずつ前に進もう!そんな映画だと思っている。
実はあってはならないこと。
現実誰にでも起こりうること。
そんな予防は、実は普通に暮らしている僕たちの「目」だと思う。感じる「心」だと思う。
昭和な時代に、子供たちに声をかけていた近所のおじさん、おばさん。
それが役立っていたことを切実に感じる。
繰り返さないためには、何気ない変化に気づく大人の目なのかもしれない。
そして震災が起こったこのようなときだからこそ、「心」が必要なんだと思う。