
出も違和感。
そもそもドゥニ・ヴィルヌーヴが監督した前作は、エミリー・ブラント演じるFBI捜査官が麻薬カルテル摘発の特別チームに参加して、前述のマックスとアレハンドロの違法捜査に巻き込まれていく物語だった。
エミリー・ブラントは、もはや自分が守ろうとしているのは正義なのかすらわからず、危険極まりないグレーゾーンにただ悄然とするのである。
いわば前作でのブラントは、われわれ観客に近い目線から、麻薬戦争の狂った世界を覗き込んでいた。
ところが今回「ボーダーライン ソルジャーズ・デイ」の主人公は、麻薬組織への復讐心に燃えるアレハンドロで、まったく視点が異なる。
われわれ観客も、常人には手に負えない“静かなる野獣”アレハンドロの人間性の深層に、ぐっと踏み込んでいくことになる。
つまり本作は続編というより、同じ世界観を共有するまったく別のエピソード。
本作を先に観てから前作に遡ったとしても、特に困ることはないだろう。
この二作品を繋いでいるのは、今やハリウッド再注目最注目の脚本家/映画監督となったテイラー・シェリダン。
常に国境や辺境で起きる苛酷な現実を背景にした物語を紡いでいる人物であり、振り返ってみると「ボーダーライン」も、ヴィルヌーヴ監督の作品であるのと同じくらいシェリダン色が濃いドラマだった。
そして今回、そのシェリダンが、あえて禁じ手にしてきたメロドラマ的な展開を堂々とブッ込んできた。
なにがメロドラマ的か?
今回のアレハンドロは、家族の仇と狙う麻薬王の娘とバディムービーのように逃避行することになる。
復讐以外の感情はすべて捨ててきたようなアレハンドロと少女の間に、一体どんなエモーショナルな化学反応が起きるのか?
それともやっぱりアレハンドロは、そんな感傷などとっくの昔に失くしてしまったのか?
とはいえシェリダンには、贖罪だとか魂の再生みたいな甘い感動を提供する気はさらさらない。
しかし明らかにこの映画には、前作とも他のシェリダン関連作とも違うセンチメンタリズムが宿っていて、“エンタメ化”とでも呼ぶべき現象が起きている。
王道エンタメとはほど遠いキャラクターたちのエンタメ街道がたどり着くのは天国か地獄か?

あるいは90年代はじめに大ヒットした「ゴースト ニューヨークの幻」のようなラヴ・ストーリーでもない。
どちらかといえば後者に近いとも言えるのだが、この映画では死んでしまった男の幽霊と生きている彼女がコミュニケーションを交わすことはない。
徹底して幽霊の視線、幽霊の意識、幽霊の記憶をなぞっていくだけだ。
時間と意識と記憶の物語と言ったらいいだろうか。
夢を見ている時間の感覚に近い。
夢というよりまどろみか。
眠ったまま現実世界と関わるぼんやりとしてとりとめもない肌触り。
したがって時間は早く流れたりゆっくり流れたりする。
ある時は一瞬で世界が変わり、愛しい彼女がいなくなり、別の家族がかつてふたりが暮らした家で暮らし始める。
ある時は彼の死を悲しむ彼女が皿いっぱいのパイを食べ続け食べきって吐くまで、ぼんやりとそれを眺め続ける。
時は一定の速度で流れるのではない。
わたしが今ここにいる、その存在と意識と世界との関係によって変化し、ねじれ、思わぬことが起こる。
その意味で幽霊もまた生きているのだと、この映画は語る。
人間の形を失った何かが、彼の時間とともにそこにいる。
映画はその時間を見せることができる。
しかしそれだけではない。
時のねじれは思わぬことを起こす。
未来へと進んでいるかに見えた時間は気がつくと過去に接続し、幽霊は自分の記憶の範疇外の過去の記憶を見てしまう。
わたしたちは時間の上を流れ、歩いているのではなく、時間そのものがわたしたちの中に流入するかのよう、時間のメディアとしての存在であるということか。
見知らぬ人の記憶がわたしの体を貫く感覚。
だが「見知らぬ人」とは一体誰か?
この映画の結末はそんな人生の神秘に触れる。
その時時間は多方に広がり、私たちは生も死も超えた存在となるだろう。
このまどろみのような映画は、眠っていたわたしたちの何かを目覚めさせるに違いない。