知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『世界の城郭 4(チェコのトロスキー城 この不思議な縄張り)』―サンタレーオ城は「ルパン三世とカリオストロの城」の城のモデルに― 

2020-07-26 18:39:37 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 4(チェコのトロスキー城、その他の城の不思議な縄張り)』

―サンタレーオ城は「ルパン三世とカリオストロの城」の城のモデルに―

 

 西洋の中世の城郭は、山城が多いのですが、中には負け戦でも、自殺できない、最後の一兵まで戦う決意だったと思える城・トロスキー城がありました。 これを、日本の『松江城天守閣の 桐の階段』や『八王子城の詰め城』の縄張り構想と比較してみます。

チェコ トロスキー城(ウキぺデイアより引用)

 まったく孤立して立て籠もれる砦が左右に76m離れて並び立ち、その間を城砦化していたようですが、驚くべきことに、二つの岩山は、地質時代の第三紀(6430万年前~260万年前)のマグマの噴出でできた玄武岩の固まりだそうで、そこからTrosky(=瓦礫)城の名がつきました

 

 もう二か所並べてみます。

ブルガリア べログラトチク要塞(ウキぺデイアより引用)

 厚さ約2m、高さ約12mの城壁を持つ。 城内は三つの郭に分けられており、それぞれ城門によって結ばれている。 要塞全体では約10210m²の面積を有する。この地域の奇岩群は防御面で天然の要塞となっており、城壁は要塞の南東部と北西部にのみ建てられている。城の中庭は高さ70mに達する岩壁で囲まれている。要塞は文化的遺構と宣言された後に、地元の歴史博物館によって修復が行われた。

 

サンマリノ サンタレーオ城(ウキぺデイアより引用)

 サンマリノ共和国の西側に位置するコムーネ(イタリア語で最小自治体)である。 峻険な岩山の突端にサン・レーオ城が所在する。

 サン・レーオ城は岩山の上に設けられ、マルケとロマーニャの境界を望む城である。 この地の城砦はローマ人によって築かれて以後しばしば拡張された。15世紀には要塞化され、18世紀に活動した「山師」アレサンドロ・ディ・カリオストロが幽閉され獄死した場所としても知られている。

  2012年にトリップ土バイザー日本版の企画「バケットリスト」の「世界の名城25選」に選ばれた。『ルパン三世とカリオストロの城』に登場するカリオストロ城のモデルとなった、とも語られる 

 

ここで、日本の城と比較するには、武士道と騎士道を比較してみました。ウエブ情報です。

  「武士道」とは、武士階級が存在した日本における、武士としての規範になります。 「武士道とは、死ぬことと見付けたり」という、江戸時代の山本常朝という武士の言葉が有名なように、命を惜しむことなく忠誠に励むことが基本精神となっています。

  「騎士道」とは、中世の欧州で確立された、騎士階級における規範のことです。 常に鍛錬に励み、弱者を守り、誠実であり、忠誠心に優れたことが主な内容で、神への信仰もこれに含まれます。 ここでの「神」とは、キリスト教におけるイエス・キリストのことで、騎士に与えられた武具には十字架のマークが付いているものが多くあります。

 

 武士道は,自身の名誉や意地を、騎士道は正しさを重んじるという差があります、戦争において武士道では敵への降伏を拒否しての自殺があるが、騎士道にはこれがなく、代わりに死ぬまで抗戦することを選ぶ。 言うまでもなく、キリスト教は自殺を禁じているためであると言われます。

 

 日本でも、西洋でも古代から中世は圧倒的に山城が多く、中世から近世初期にかけては、平山城・平城になります。 日本には、2万5千、又は。4~5万の城・城跡がありますが、そのほとんどが石垣ではなく土塁でした。

 

 西欧の城郭も、最初は土塁もありましたが圧倒的に多いのは、石垣ではなく石壁です。 石を直方体に加工して接着して垂直に積み上げる技術は、日本の石垣構築技術とは異なります。 

 戦にに負けて、やむを得ず、切腹・自刃することを、考慮した城の造作の二例です。

 

松江城の天守閣の桐の階段

 松江城は、国宝指定された5城のうちの一つである(他は犬山城、松本城、彦根城、姫路城)。 天守の階段は、桐(きり)の木でできている。桐の階段があるのは全国の城で、松江城だけ。いざというとき、すぐに撤去して敵の侵入を防ぐために、軽い桐を使ったとされる。 松江城に顕著な、実戦を意識した構造の一つである。

  半世紀も前のことですが、初めて城らしい城『松江城』を見学したときの、ガイドさんからこの話を聞いて以来、半世紀も『城好き』で居ります。 現在の松江城は戦火遭遇はなく、桐の階段の使用実績(城主が自刃に追い込まれること)もなかったようです。

 

八王子城の詰め城

 八王子城の巨大な総構えは、山城で堅城であったが、実際の小田原城合戦(秀吉の小田原城攻め)の勝敗を決定づけたと言われる、秀吉軍の猛攻で八王子城は半日で落城した。 守将横地監物は『詰め城』には脱出できず近くの『檜原の山中』で自刃した。

 自殺を禁じたキリスト教の世界と、切腹自殺の記録が早くも898年にはあった日本では、城造りで考え方の違いが少しはあったようです。

                 (20200726纏め #196)

 

 

 

                  

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