知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『古代の巨石文明 2(エジプト・4600年前)vs(マヤ・1300年前) vs (アステカ・700年前) vs(インカ・400年前)』

2021-03-16 06:48:20 | 歴史・世界

『古代の巨石文明 2(エジプト・4600年前)vs(マヤ・1300年前) vs (アステカ・700年前) vs(インカ・400年前) 

 

エジプト文明 エジプト ギザの大ピラミッド

 日本の縄文時代後期に、平均2.5トンの石灰岩を約270万個―280万個積み上げたと計算される。 現在高さ138.74m(もとの高さ146.94m、キャップスストンが8ⅿもあった)は、14世紀にリンカン大聖堂の中央塔が建てられるまで、およそ3000年間も世界で最も高い建築物であった。 

  総重量およそ200-250万トンの自重で潰れるのを回避するための重量軽減の間(縄文時代にこんな理論・技術があったのか!)が内部にあり、 王の間と女王の間にはそれぞれ通気孔が存在する。これは「シャフト」の名で呼ばれ、部屋の温度を一定に保つためのものと考えられている。

  仕上げにはこの大ピラミッドをカバーしていた白色の石灰岩の化粧石が全面に貼り付けられていました。 この化粧石は、道路やビルに使われたようです。 三大ピラミッドのすべてが、化粧石で覆われていました。 メンカウラー王のピラミッドの化粧石は上部が白、下部が茶色のツートンカラーです。 三大ピラミッドは、規模・内部構造・デザインセンス等、ただ驚くばかりで、『神々の指紋』の著者グラハム・ハンコック氏でなくても、想像が無限に膨らみます。

 

 マヤ文明 メキシコ チチェン・イッツァのピラミッド

 文字がなかったと言われるインカと異なり、マヤ文字はあった。 エジプトのヒエログリフやアナトリア象形文字と同様、表語文字と表音文字(音節文字)の組み合わせによる表記体系である。 文字の数は650から700種類があると見積られている。

  文字があっても、非常に複雑なマヤ暦は、ピラミッドの形に残した。 大きな9段の階層からなり、4面に各91段の急な階段が配されていて、最上段には真四角な神殿がある。 ピラミッドの階段は、4面の91段を合計すると364段で、最上段の神殿の1段を足すと、ちょうど365段である。 また1面の階層9段は階段で分断されているので合計18段となり、これらはマヤ歴の1年(18か月5日)を表す。このことから「暦のピラミッド」とも呼ばれる。

  マヤの暦では13というのが、ひとつのサイクルで使われている。 マヤの長期暦は2012年の12月20日ころまでだったので、ここで世界が終わるという終末論もあった。 実際は今もマヤの長期暦が新しい暦に入って、新しい時代に入ったという。 人為災害の、『新型コロナウイルスによるCOVID-19』も、『待ったなしの激甚気象』も、『杞人天憂』であって欲しいと祈るばかりです。

 

 マヤ文明 メキシコ テノチティトランの水上首都

 テノチティトランは、かつてのアステカの首都。 最盛期には人口は約30万人であったと伝えられる。 テスココ湖の島上に建設された。 現在のメキシコシティに相当する。 テノチティトランはナワトル語で「石のように硬いサボテン」を意味する。 16世紀初頭、スペイン人のコンキスタドール(征服者)エルナン・コルテスによってアステカが征服されたのち、1520年代に破壊された。 コルテスは、植民地「ヌエバ・エスパニョーラ(新スペイン」の首都、現在のメキシコシティを、テノチティトランの廃墟の上に立て、その別名メシコをもって新しい都市の名とした。 現在テスココ湖はほとんど埋め立てによって消失している。

 

マヤ文明 メキシコ テオティワカン遺跡

 テオティワカンは、メキシコの首都メキシコシティ北東約50キロの地点にあり、紀元前2世紀から6世紀まで繁栄した、テオティワカン文明の中心となった巨大な宗教都市遺跡。 当時のアメリカ大陸では最大規模を誇り、メソアメリカの中心的都市として機能していた。

 

 テオティワカン人の宇宙観、宗教観を表す極めて計画的に設計された都市で太陽のピラミッド、月のピラミッドとして南北5キロにわたる道(「死者の大通り」)が基点となり各施設が配置されている。 

 

 当時最盛期の人口が、20-30万人と推定されるが、この人口で、これだけの規模の宗教都市の設計(縄張り)と建設工事の監督指揮、そのための行政管理ができたのに驚くと同時に、有能なリーダーとスタッフ陣が揃っていたのでしょうか、今の日本とついつい比較をしてしまいます。

 

 インカ帝国 ペルー オリャンタイタンボ

写真(1)

ウエブ情報より引用

ウエブ情報より引用

ウエブ情報より引用

  この三枚組の中と下からご覧ください。 中央部分の壁に窓のような窪みが作られています。 これが壁龕。10あるので『10の壁龕の神殿』と呼ばれています。 かっては、おそらく黄金の神像などが飾られていたのでしょう。 遠景・俯瞰では見えませんが、壁龕の左手に『L』字型に、ついているのが『オリャンタイタンボ』です。

  世界中の著名な、先生方も、この15世紀に構築されたオリャンタイタンボの遺跡について石の切り出し・運搬・構築方法に関して全く推測さえしていない。 

 

写真(1)、15世紀構築のインカのオリャンタイタンボの6枚屏風岩

6枚中最大のものは、高さ4m、幅2.5m、厚さ平均1m、重さ約80トン。

  日本にもある石舞台(7世紀、時間差は約1,000年)には、77トンと60トンの天井石が載せられていますが、全く加工はされておらず、無垢の自然石です。

   ユーラシアとその諸島、英国・日本等の巨大な石を使った遺跡は、ある程度、切り出し・運搬・構築方法は、推測できるし、一部には痕跡もある。 このオリャンタイタンボの6枚屏風岩遺跡を含む、精緻に加工されたインカの遺跡には、殆どその痕跡がない。  先ずはウエブ情報です。

  一番近くの花崗岩の石切り場は、直線距離で10キロ、実際の運搬距離では少なくとも15キロ離れたウルバンバ川支流のパタカンチャ川の流れ込む谷間向こうにある。

  6枚屛風岩のある地点は150mほどの高さ。 花崗岩の石切り場のある地点は330mほどの高さ。 つまり、6枚屏風岩の建造者は80トンもの重量のある巨石を330mの高さの山上で切り出し、一度山の麓まで降ろし15キロもの距離を運ぶ途中で川を渡らせ、再び、150mもの丘の上に上げたことになる。

  50トン以上の石6枚を切り出し・運び・並べて建てるのは不可能に近く、機械を使わずに、どのようにしてこれを作ったのかは解明されていない。

 インカ帝国には、巨大な石を使った遺跡が数多く残されており、その加工技術も謎のままで石の表面が非常になめらかに加工されているものが多い。

 

エジプト・メキシコ・ペルーの巨石遺跡の中には、知る喜びの前に、解らないことが多く、課題が残ります。

    20200823纏め、20210316一部訂正、 #208

コメント
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