『外国・台湾の記憶 2(湾岸戦争と台湾脱出・緊急帰国ルート)』
昔、1991年、台湾に長期出張中だったときに湾岸戦争を経験しました。
湾岸戦争
ウキペデイア情報から引用
湾岸戦争とは、1991年にイラク、クウェート、サウジアラビアといったペルシャ湾周辺の国家地域で起こったイラクのサダム・フセイン政権とアメリカを中心とした多国籍軍によって行われた戦争で、日本では1980年に同地域で起こったイラン・イラク戦争と区別する際に特に「湾岸戦争」と呼びます。
元々、いわゆる湾岸地域と呼ばれるイスラム諸国では東西冷戦以来ずっと戦争が続いていましたが、1980年に始まったイラン・イラク戦争はそれぞれの政権が支持する教派の違いと先進国への石油輸出の権利を巡ることによって起こりました。
1988年、一旦は国際連合の仲裁によって両国間に停戦が成立しましたが、両国の戦争による財政難は非常に深刻でした。そこでイラクのフセイン政権は1990年に石油を大量に保有しているクウェートに対して攻撃を仕掛け占領します。
フセイン政権のこの行為は当然、国際社会から非難を浴びることになります。
国連安保理はイラクに対し期限までにクウェートから撤退することを要求しますが、イラクはこれを拒否。こうして1991年1月、アメリカを中心に非戦闘参加国を含む合計35ヵ国による多国籍軍がイラクなどに対して攻撃を開始。
通称「砂漠の嵐作戦」と呼ばれる空爆が数週間に渡って行われました。
空爆が行われた後、戦局は「砂漠の剣作戦」と呼ばれる地上戦に移行します。空爆によって重要拠点が機能停止していたことで勝敗は明らか。 戦争は数ヶ月でイラクの停戦合意、そしてクウェートからの撤退という形で終わります。
当時、お世話になっていた会社の海外駐在員・出張者への指示はいとも簡単でした。 『短期出張中の出張者は、可及的速やかに空路帰国のこと。 駐在員は次の指示があるまでは、移動はせずに現地にとどまること。 残ったのは短期出張者でも駐在員でもない、長期出張者(一般的には一カ月以上で数カ月)は、当面そのまま継続してとどまることでした。
この指示は、最も懸念された、米国系の旅客機ジャックとテロの回避目的でした。 さらに対象旅客機は、その他の国・地域のも拡大された結果が、この時の指示になった様でした。
最も安全な台湾に長期出張中とはいえ、自分の身は自分で守るの経験とモットーから、密かに、最も危険な空路を避けて、比較的安全な海路(高雄―那覇)にめどをつけて安堵した経験があります。
ウエブ情報から引用
この台湾長期出張の間に、思わぬ遭遇もできました。
蒋介石の『例大祭』は4月5日の蒋介石の命日に毎年行われました、それに合わせて台湾に里帰りされた、憧れの女優・歌手『魅せられて』のジュディ・オングさんと台湾グランドホテル圓山大飯店のショッピングアーケードで衝突しそうな遭遇でした。
この時、とっさに出たのが『対不起(広東語の「トイブチ」)』、瞬間的な反応には英語の「Excuse me」より瞬発性があります。 日本語の「失礼」に次ぐ便利な言葉です。 後で思い出したのですが、数ヶ国語(中国語だけでも、北京語、台湾語・潮州語・広東語・上海語等々)に堪能な台湾生まれの彼女は勿論この広東語に驚きもしませんでした。
その時の彼女の服装は、紅白歌合戦の『魅せられて』を彷彿させられる。 生成りホワイトのドレスにオフホワイトのコートでした。 双方大慌てで、恐れ多くも,サインを頂くなど全くできない遭遇でした。 その翌日『蒋介石の例大祭』でインタビューを受けているところをテレビ放送で、たまたま見まして、驚いたことを覚えています。
『ジュディ・オング(本名:翁倩玉、英語名:Judy Ongg、帰化名:翁ジュディ(帰化当時は翁玉恵「おきな たまえ」)』
日本語は、表意文字・表音文字(ひらがな・カタカナ・ローマ字)と、凄くて優れて、詩歌には向いてますが、やはり難しいです。
(記事投稿日:2022/02/18、#479)