『ナスカの地上絵-3(地上絵の変遷から更に生贄→土偶→土器へ)』
―地上絵は「動植物の絵」→「幾何学模様」→「直線」へと変遷!―
ナスカの地上絵の分類を再掲します。 ナスカの地上絵といえば、鳥・魚・昆虫等動物の絵(一筆書き、これが雨乞い巡礼儀式に繋がる)が多いと言われます。 実際には
❶直線800本以上(交点がある)、その中には、48㎞の長さに及ぶものがある。 三角形、長方形、台形などの基本図形に、螺旋模様、矢印、ジグザグ模様、波線など、
❷幾何学模様、300以上が見つかっています。
❸動植物の絵が、70個以上で、ナスカの地上絵と言えば、動物や植物を覚えていますが、大きいものは、長さ370ⅿ近く日本なる地上絵も存在します。
岩石砂漠の上のナスカの地上絵の謎を喧伝したのは何といっても、『雨乞いをする砂漠の住人』が描いている『太平洋のペルー海流(フンボルト海流)にのってくるクジラ』と『アンデス山脈の裏側のアマゾンのジャングルの動物』の絵の不思議です。 インカ道で広域の行動範囲をもったインカ人は当然、クジラもジャングルの動物を知っていたと思います。
(1)ナスカの地上絵の衛星写真は、なぜか、北を右に表示
ウエブ情報から引用
(2)この衛星写真が正確な方向を示す
ウエブ情報から引用
(3)普通に北を上に拡大、下方の南側が寒流の流れる太平洋
ウエブ情報から引用
ナスカの地上絵が立地する場所は、ペルー南海岸地方の北から南へ走る丘陵と北東方向のアンデス山脈の麓との間にあるパンパ=コロラダ、パンパ=インヘニオと呼ばれる細長い盆地です。 長い年月の間に、西方や東方の比較的高い場所からの水の流れが浸食した土砂を盆地に運び続けた。 このような土砂は細かくて明るい色、黄白色をしている。 この土の上に時々大洪水によって多量の石を含んだ土砂が運ばれる。 細かい土は、南風によって吹き飛ばされ、比較的大粒の礫や岩石が残され黒く酸化され、地上絵を描きやすくなる。
ナスカの地上絵は『世界八不思議』を選ぶとすれば、その筆頭候補に挙げられています。 1939年6月22日、動植物の地上絵は考古学者のポール・コソック博士により発見され、その後ドイツの数学者、マリア・ライヒエが終生、この地に住み着き、彼女を中心として地上絵の解明作業と、保護が行われるようになりました。
ドイツの数学者、マリア・ライヒエ
ウエブ情報から引用
古代ナスカ人は地表の酸化した砂利(黒っぽい)を取り除き、その下の明るい粘土質の土を露出させるという方法で1000点以上もの地上絵を描きました。(明るい粘土質が酸化して黒くなれば、将来消滅する運命に・・・)
ナスカの地上絵の描き方には2つの有力な説
❶「拡大法」、もうひとつの有力な説
モデルの絵には支点となる木棒を打ち込み、拡大したい長さの紐と絵を描くためのもうひとつの木棒を取り付ければ、原画とまったく同じ線を描くことが可能になるのです。 200メートル以上の地上絵を描くのは難しく、200メートルを超える地上絵の詳しい描き方はわかっていません。
❷「種まき応用法」
複数の人たちが横並びになって、歩幅を合わせながら前進していき、歩幅によって距離を測定しながら均等に絵を描くというものです。 しかし、この方法では50メートル以上の地上絵を描くのは難しい・・・。
ナスカの地上絵は何のために、有力説は、トップ❶~❸に
❶「雨乞い儀式利用説」
❷「暦法関連説・カレンダー説」
❸「水のありかを示していた説」
❹「巡礼に関する役割説」
❺「権力者の埋葬説」
❻「社会事業説」
❼「管理者テスト説・成人試験説」
現時点では、有力な説はあるが、決定的にこの説が正しいと証明されたものはありません。 おそらく、ナスカの地上絵はひとつの目的でつくられたのではなく、複数の目的でつくられたのだと考えられます。 また、『時代の移り変わりや、気候変動によって、ナスカの地上絵を描く目的が変わった可能性もあるのでは』という説がありますが、現時点では『雨乞い説』を信じます。
ここまで、自分なりに急ぎ整理したのは、先日『大ナスカ~最後の謎~「新地上絵テレビ撮影世界初! 第28回JNN企画大賞」 2018年1月20日(土)16:00~17:00 TBS』の再放送を見ましたので。 謎の多い『ナスカの地上絵』ですが、その謎もかなり解明されてきておりますが、この辺で整理して今後の継続調査に備えたいと考えています。
今回のナビゲーター・鶴田真由さんは、TV番組の取材などでアフリカを訪れたことが契機となり、2008年2月、第4回アフリカ開発会議(TICAD)親善大使の委嘱を受けた。 関連して、同年3月から4月にかけてケニア及びスーダン南部を訪問、視察した。 出身地である鎌倉市の観光大使も務めている。 ドンピシャのキャスティングでした.(ナスカの地上絵の背景がピッタリと似合う方です。)
ウエブ情報から引用
あまりにも巨大な絵が多く、空からでないとほとんどの地上絵の全体像の把握が難しい。 なぜこのような巨大な地上絵を描いたのかということが大きな謎の一つとなっていました。 最近の大掛かりなチームの研究や、衛星画像の解析で『HOW』も『WHY』もかなり解明されてきています。
ナスカの地上絵に関連する、キーワードを確認してみます。
❶岩石砂漠の人々が、水と共生する動物を大地に描いた
クジラ、カモ、ペリカン、シャチ等ですが、ペルーの沖合には 南極からやってくる冷たい海流がある。 想像したより古代人・ナスカの人々の行動範囲は広く、アマゾン川の源流・ジャングルまで広がっていたようです。
❷土器を割って雨乞いの祈り
きれいな土器を持ち込み意図的に割るという儀礼・儀式。 日本でも縄文土器のように、何かを包み込むため儀式の後、土器を地面に叩きつけて割るなど。
❸毛髪から雨の量がわかる
科学の発達は凄い、砂漠に定期的な雨期ではなく、雨量の大きな不規則変化が雨乞い行事に変化と変遷があった。
❹命が大事なゆえに『生』を捧げた
生贄は世界中にあった。
❺生贄の代わりに土偶は、日本にもあった
これは人類の普通の進化です。
❻地下水が見つかった後は地上絵が減った
ここからもわかる地上絵の『Why』は雨乞い説・
繰り返しになりますが、この地上絵のあるナスカ盆地は、アンデス山脈と太平洋の間に位置し、雨が少なく、農業のためには雨乞いは不可欠でした。 人口5万人余では、規模の大きな雨乞い用の地上絵の作成は大きな負担になってきたのでしょうか、生贄―土偶―土器の絵に変遷していったと思われます。
ペルーのナスカ川とインヘニオ川に囲まれた『乾燥した盆地状の高原の地表面・岩石砂漠はいつから砂漠に❓』が、キーワードになりそうな『ナスカの地上絵の謎(地上絵は、紀元前後から後800年ころに、栄えたナスカ文化のもの)』です。
ナスカの地上絵を製作したと考えられるナスカ文化は、ペルー南海岸のナスカ川とイカ川の二つの河川流域を中心に紀元前100年~後700年頃に繁栄した、人口5万人程度の比較的小規模な社会で、アンデス文明形成期後期にさかのぼるパラカス文化(紀元前900~100年)から連続的に継承発展した文化と考えられています。
ペルー文化庁のラビーネス (Rogger Ravines) も、パンパ=コロラダの周辺の遺跡から土器片を収集して、観察した結果、全てナスカ様式だった。 これは、地上絵の近隣の遺跡は地上絵を描くための一時的な労務者集団の野営地とも考えられている。 これらの結果から、時期的には、先行するパラカス文化の終わる紀元前200年頃から西暦800年頃のナスカ文化の時代に描かれたものだとほぼ確定されている。
そして現在、ペルー政府が世界で唯一地上絵への長期立ち入り調査を認めている研究チームが山形大学にある。 文化人類学教授、坂井正人氏を中心に地道な調査研究を続け、その謎に迫っている。 番組では、ナスカ研究の日本の第一人者、坂井正人教授の研究に密着。
ウエブ情報『大ナスカ~最後の謎~』で紹介された情報の抜粋引用今後の調査のための長文の『備忘録』です。
カワチ神殿
アントニーニ博物館には、カワチ神殿で見つかったナスカの人々の頭部が展示されている。 ジュゼッペ・オレフィチ博士は、「頭というものが非常に重要なものと考えられていた。 当時のナスカの人々にとって最も重要なものを神に捧げるという意味で頭が使われていた」と話す。特に若い男性の首が生贄として捧げられたと考えられている。山形大学が見つけた新たな地上絵の中にも、人間の首を生贄に捧げていたことを裏付ける場面が描かれている。
カワチ神殿がナスカ社会の中心として勢力を増した時期と、ハチドリなどの地上絵が描かれた時期はほぼ同じ。 神殿と地上絵はどんな関係だったのか。 ジュゼッペ・オレフィチ博士は、「同じ時代の神聖な空間であり、当時の人たちにとって、どちらも重要な場所であったと考えられている」と話す。 カワチ神殿にやってきた鶴田真由。 特別な許可を得て神殿の最上段に上がってみた。 最上段からの景色を見た鶴田は、「だいたいナスカ大地と同じくらいの目線でここが建てられているのですね」とコメントした。
カワチ神殿の真北にはカレーラ山があり、麓に居住地があった。 さらに真東にはポンク山があり、やはり麓に居住地があった。そして、ハチドリのような動物の地上絵は両方の集落に近い場所に作られた。 坂井教授は、「ナスカ側とインへニオ側が同時にこの神殿の活動を支えていたのだろうと考えられる。 (儀礼は)豊作を祈願するために行った。 異界にいるような神様に対して首を捧げると。 動物の地上絵で行われている儀礼というのも豊作を願うような儀礼と関係しているのかもしれない」と話す。
当時のナスカの文化を紐解くうえで重要な手掛かりとなるのが巨大遺跡・カワチ神殿。 1984年からこの遺跡の発掘を続けているのがイタリア調査団のジュゼッペ・オレフィチ団長。 オレフィチ団長によると、ナスカ時代はカワチ神殿を中心に社会が形成されていたという。 オレフィチ団長は、「カワチから出土したものは神々がいかにナスカの人々の生活やカワチ神殿における儀式において重要だったかを示している。つまり、宗教はナスカの人々の生活の中心だったのです」と話す。 ナスカ市内にあるアントニーニ博物館では、カワチ神殿で見つかったたくさんの出土品を展示。その中に地上絵の謎を解く重要な鍵となるものがあった。
アントニーニ博物館
アントニーニ博物館には、カワチ神殿で見つかったナスカの人々の頭部が展示されている。 ジュゼッペ・オレフィチ博士は、「頭というものが非常に重要なものと考えられていた。 当時のナスカの人々にとって最も重要なものを神に捧げるという意味で頭が使われていた」と話す。 特に若い男性の首が生贄として捧げられたと考えられている。山形大学が見つけた新たな地上絵の中にも、人間の首を生贄に捧げていたことを裏付ける場面が描かれている。
当時のナスカの文化を紐解くうえで重要な手掛かりとなるのが巨大遺跡・カワチ神殿。 1984年からこの遺跡の発掘を続けているのがイタリア調査団のジュゼッペ・オレフィチ団長。オレフィチ団長によると、ナスカ時代はカワチ神殿を中心に社会が形成されていたという。 オレフィチ団長は、「カワチから出土したものは神々がいかにナスカの人々の生活やカワチ神殿における儀式において重要だったかを示している。 つまり、宗教はナスカの人々の生活の中心だったのです」と話す。 ナスカ市内にあるアントニーニ博物館では、カワチ神殿で見つかったたくさんの出土品を展示。 その中に地上絵の謎を解く重要な鍵となるものがあった。
ペルー文化省
古代ナスカの生活を知る手がかりの1つがチャウチーヤにある。 チャウチーヤとは、地上絵が描かれた時代より後のイカ期に作られた一般的な墓。 山形大学の学術研究員・瀧上舞さんはここでミイラの研究に取り組んできた。 中でも注目したのが髪の毛。 毛髪を詳しく分析すると、当時の人々が何を食べていたのかがわかるという。 山形大学ではナスカで見つかったミイラや土器などがいつの時代のものなのか丹念に調査している。 ここで活躍するのが「AMS」という分析装置。 分析の結果、トウモロコシやイモ類、豆類などを食べていたことが判明。 また、イカ期とナスカ期の食べ物のバリエーションはほぼ同じであることもわかったという。 ペルー文化省のジョニー・イスラ局長は、「ナスカでは深刻な砂漠化が起こり、生活が非常に困難になった。 そういった厳しい生活環境の中からナスカの人々は水路を作って水を引いてくる技術を生みだしたのです」と話す。
山形大学
古代ナスカの生活を知る手がかりの1つがチャウチーヤにある。チャウチーヤとは、地上絵が描かれた時代より後のイカ期に作られた一般的な墓。山形大学の学術研究員・瀧上舞さんはここでミイラの研究に取り組んできた。中でも注目したのが髪の毛。毛髪を詳しく分析すると、当時の人々が何を食べていたのかがわかるという。山形大学ではナスカで見つかったミイラや土器などがいつの時代のものなのか丹念に調査している。ここで活躍するのが「AMS」という分析装置。分析の結果、トウモロコシやイモ類、豆類などを食べていたことが判明。また、イカ期とナスカ期の食べ物のバリエーションはほぼ同じであることもわかったという。ペルー文化省のジョニー・イスラ局長は、「ナスカでは深刻な砂漠化が起こり生活が非常に困難になった。そういった厳しい生活環境の中からナスカの人々は水路を作って水を引いてくる技術を生みだしたのです」と話す。
ヘリコプターで、上空からナスカの地上絵を眺める。鶴田は「スタンプで押したみたいに結構線がきれい。 一筆書きで描いていますね、象形文字みたい」などと語った。地上絵に詳しい日本の専門家である、山形大学の坂井正人教授に話を聞いた。 坂井教授は、2004年にナスカ地上絵の研究チームを発足し、これまでに400以上の地上絵を見つけてきた。 ナスカ台地にあるミラドールという観測塔に登ってみる。 実は直線の地上絵は数千点あるが、動物・植物の地上絵は70点ほどと、全体のごく一部であるという。 また、今でも残っている理由は、水が流れず長く保存できる場所を選んで描かれたからだという。坂井教授は「かなり計算して描かれたのでは」などと語った。 特別に許可を得て大地の中で撮影を行うことに。 「地上からでもきれいに見えるポイントがある」という坂井教授の案内でたどり着いた、あるポイントからコンドルの地上絵を見た鶴田は「意外と分かるものですね」とコメントした。 ナスカ絵は左右対称に描かれており、中心に立つと察知しやすくなるのだという。 ナスカ台地の地表は、強い日差しによって表面が黒く日焼けした石の下に白い砂が覆われてできている。 石をどかして現れた白い砂と黒い石のコントラストで線を描いているという。 地面に、土器の破片を発見。坂井教授は、きれいな土器を持ち込み意図的に割るという儀礼を行っていたからだと話す。
山形大学ナスカ研究所では、現地で発掘・収集した大量のサンプルを保管し分析している。様々な分野のエキスパートが調査プロジェクトに参加している。さらに、出土品の修復などによって、頭から被る貫頭衣のウンク、腰から巻いて着用するスカートなど、当時の人々が着ていた衣服なども明らかになってきた。
ナスカの地上絵
シャチ
2003年、ナスカ台地の近くに、巨大な聖母マリア像が描かれていた。この地方に住む女性2人が描いたもので、大きさは約80メートル。 描いたマリアさんは、「後ろに見えるチャピの聖母マリア像を反映させたもの」などと語った。この地域の農家は、種まきなどをする時に歩数で正確な距離を測れるという。 酒井教授は、この農法や、現代に描かれた聖母像を参考に、地上絵は足で描かれたという仮説を立てた。 動物の地上絵の線の太さは人の足幅とほぼ同じだという。 さらに、地上絵に描かれた動物は、土器の絵柄になっているものがほとんどであることが分かった。 例えばシャチは、人の首を切っている場面が土器にも地上絵にも描かれている。去年9月、ナスカ台地で新たに確認された地上絵を世界で初めてテレビ撮影した時、確認されたのもシャチの地上絵だった。専門家のジョニー氏は、「シャチはナスカで、最も代表的な神の一つであった」などと語った。シャチ以外にも、人間の首と動物が一緒に描かれた土器が見つかっている。坂井教授は、「人間が神様との間である種の交換をやっている。首を授けるかわりに、作物を与えられるという考えがあった。人間の世界と神の世界を媒介するような存在として動物が位置づけられている」などと語った。
ナスカの地上絵に描かれていた動物の意味について。坂井教授は、「絵の中で、シャチには首を切る役割、鳥には首を運ぶ役割があった。地上から天上へ、天上から地上へ戻ってくるというこの動きは、豊作に必要な水の循環そのもので、豊作を実現させるという考えがバックグラウンドにあった」などと語った。
アルパカ
インへニオ川に近い山の斜面にエストゥディアンテス遺跡がある。以前から居住地だと言われていたが、山形大学が本格的な発掘調査を行うまでその実態は謎に包まれていた。 発掘調査の結果、実際に煮炊きや、布を作るという活動が行われていたことがわかる道具や壺が見つかったという。 ナスカ周辺にはビクーニャやアルパカなど、様々なラクダ科の動物が生息している。 2014~15年にかけて山形大学は、ナスカ市近くの山の斜面にラクダ科動物のような地上絵を40以上見つけたと発表している。 この地上絵があるのはエストゥディアンテス遺跡から約5kmの場所。実は、斜面に描かれた地上絵は平地の地上絵とは全く違う意味があるという。
山形大学
アントニーニ博物館には、カワチ神殿で見つかったナスカの人々の頭部が展示されている。 ジュゼッペ・オレフィチ博士は、「頭というものが非常に重要なものと考えられていた。当時のナスカの人々にとって最も重要なものを神に捧げるという意味で頭が使われていた」と話す。特に若い男性の首が生贄として捧げられたと考えられている。山形大学が見つけた新たな地上絵の中にも、人間の首を生贄に捧げていたことを裏付ける場面が描かれている。
インへニオ川に近い山の斜面にエストゥディアンテス遺跡がある。以前から居住地だと言われていたが、山形大学が本格的な発掘調査を行うまでその実態は謎に包まれていた。発掘調査の結果、実際に煮炊きをし、布を作るという活動が行われていたことがわかる道具や壺が見つかったという。ナスカ周辺にはビクーニャやアルパカなど、様々なラクダ科の動物が生息している。2014~15年にかけて山形大学は、ナスカ市近くの山の斜面にラクダ科動物のような地上絵を40以上見つけたと発表している。この地上絵があるのはエストゥディアンテス遺跡から約5kmの場所。実は、斜面に描かれた地上絵は平地の地上絵とは全く違う意味があるという。
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1994年に「ナスカとフマナ平原の地上絵」の名称で世界遺産登録されましたが、2016年に「ナスカとパルパの地上絵」と名称変更をされています。
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寒流が沿岸を流れる地域では、上昇気流が発生しにくく、降水は少なくなるのだとか。ペルーの沖合には 南極からやってくる冷たい海流が流れているので、こうした海岸砂漠が続いています。冷たい海水からは水分が蒸発せず、雲ができなくて雨が降らないのだと。
何故消えずに残ったのかというと、気象条件のなせる技。日中の暑さにより砂礫が熱をもつので、その熱の放射で地表に対して暖かい空気層をつくり出し、南風による表面の浸食を防ぐのです。雨もほとんど降らない気候環境から雨による浸食もほとんどない状況をつくり出しました。
この辺りが ペルー海流沿いにできたアタカマ砂漠でしょうか。
寒流の影響で形成された「海岸砂漠」です。40年間、全く雨が降らなかった地域もあるといわれています。
大自然が広がる中央アンデスには、紀元前 3000 年を過ぎる頃、人々の定住がはじまりました。 この地域は、大きく分けてコスタと呼ばれる乾燥した海岸漠地域、シエラと呼ばれるアンデス山脈に広がる山岳地域、アンデ ス山脈東側斜面からアマゾンに続いているセルバと称される森林地域からなります。
変化に富んだ自然環境を巧みに利用しながら、古代の人々は次第に社会を確立していきました。プレ・インカからインカにかけて受け継がれた優れた文化は、今から 4,000 年ほど前から築かれてきたとされます。
人々は温暖な海岸地帯で最初の文化を開き、のちに肥沃な土地があるアンデスの谷間へと移り住みます。灌漑用水路を作り、遠くアンデスの山々から水を引き、高度差を利用してジャガイモをはじめとするさまざまな植物が栽培されました。
これらの涸れた川に 水が流れていた頃、古代アンデス文明が生まれたのでしょうか?砂漠に挟まれた 狭い地域の緑が痛々しくさえ思えます。 川の流れの跡の上に浮かび上がる 図形のようなものが見て取れます。 かつては高度な文明をはぐくんだに違いない ナスカ平原。 今では この地域の年間の降水量は10数ミリという砂漠地帯です
北部海岸と比べて農業環境は恵まれていなかったナスカでは、極端に雨の恵みが少なく干ばつの影響を受けやすかったのです。 彼らは 神に祈る為に、優れた芸術品を作りました。 巨大な地上絵もその一つ、土器や織物の見事な装飾が知られています。 しかし紀元600年頃までには、干ばつ、洪水などの 深刻、急激な気候変動によって 社会的混乱が起こり、人口の大部分が高地に移住。「ナスカ文化」は、途絶えてしまいました。
また、雨がほとんど降らない地域だからこそ消えずに残された地上絵ですが、最近はエルニーニョ現象などの影響で海水温が上がり、上昇気流が起こることによって、ナスカ平原と周辺にも雨が多くなっているため、地上絵の浸食が少しずつ進んでいるそうです。 降った雨によって育つ植物も、地上絵を破壊するのです。
特に 周辺の山岳地帯に降った雨が、小川のようになり ナスカ平原に流れ込み地表を削る現象は深刻だと言われています。 アンデスの山々から水を引く灌漑用水路ですが、時代を重ねると土壌破壊の主因になるそうです。 お土産屋さんに塩が多く並ぶペルー。クスコの近くには大規模なマラスの塩田があります。この一帯は付近の水に含まれる塩分濃度が高く、その水を乾燥させて作成しています。
アンデス山脈は、かつての海底が地殻変動で隆起してできた大山脈で、多くの海水が陸に閉じ込められました。約2万年前、最後の氷河期が終わると、氷河が溶けた水は、土中の塩分を溶かしながらやがて塩の湖となります。 雨量の少ない地域だと、水分は徐々になくなっていき、その塩湖は海水より濃い塩分になるのです。
更に水分の蒸発が起こるとやがて塩が結晶化します。 最後には水が完全になくなりそこには一面の塩で覆いつくされるのです。 岩塩は、地殻変動により海水が地上に閉じ込められ数億から数千年のときを経て末結晶化したものです。
灌漑農業では、散布された水は、土の中の塩分を溶かしながら、塩水となって、地中に浸透します。その後、毛細管現象で塩水は再び地表に上昇します。ところが、気候が乾燥しているので、水分が蒸発し、地表に塩分だけが残り 農業に不向きな土壌に変わってしまうのです。
以上は、今後の調査に参考になる情報で夢がひろがりました。
(20210507纏め、#326)