『空海の凄さ様々 2(遣唐使推薦の運の良さと、万端の事前準備)』
『通常20年の長期留学生(私費)は、今日の換算で数億円相当が必要』
友人である画家の、安野光雅氏が、ある時、司馬氏に『自分の作品でどれが一番好きですか』と聞くと、『まあ、「空海の風景」かな』と言われましたと記
録があります。
ウェブ情報には高村薫氏の空海について、次の感想が載っていました。
高村薫の目的がどちらかというと、空海死後の現代に至るまでの変化を描くことにあったことに気づき、おもしろい作品?だと思った。 作品と言うより、ルポルタージュなのだろうか。
天才が感得した悟りの世界は、死後誰にもわからなかったのだろう。 最澄の延暦寺が、その存在を維持していたのに、比べ空海の信仰は世俗化をしていった。高野聖が世俗の者に理解しやすい伝説を作り上げていった。 福島県の猪苗代湖にまで伝説があるというのがすごい。
凄さ❶ 準備の良さと、巨大なスポンサー
空海は私費留学の遣唐使としての入唐前7年間で『資金作り』と『中国語マスター』をしたが、当時の記録は、この事実をほとんど残していない。空海は通訳を必要としないほど、中国語を流暢に話せた。
空海研究者の間で「空白の7年」に何があったのか、これを知ろうとする関心が高まりました。 この間の空海の事跡を語る歴史資料が発見されていないことから、さまざまな仮説が独り歩きをしています。
20年の長期留学生(私費留学僧)が必要とする多額の金銭(今日の換算で数億円相当)が当時は無名の空海に布施などの手段で調達できるとは考えられません。 20年間ではなく、2年間の留学で帰国できる決定をだれができたか、2年間の留学費用を、誰が工面したかを考えると、想像もできない『巨大なスポンサー』がいたはずです。
巨大なスポンサーは桓武天皇の根拠 ウキペディアより引用
延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の叔父である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。
延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられる。
このスポンサーなくして、国司でもない郡司の息子が『空白の7年』の維持も、 薬生で推薦された遣唐使も悪天候で断念、その翌年には、学問僧として入唐、通常学問僧は20年だが、二年余で帰国できた。
凄さ➋ 運の良さ
第十六次遣唐使船『よつのふね』の第一船に空海、第二船に官費留学の最澄が乗船した。 『よつのふね』全船が暴風で遭難、第三・四船は入唐できなかった。
ウェブ情報(遣唐使の画像)から引用
凄さ❸ 格調高い嘆願書で『入唐』実現と事前勉学の環境(中国人の教師)の提提を巨大なスポンサーが。空海の第一船も、遭難し、目的地よりはるか南の福州に漂着したため、入国を許可されなかったが旅の苦渋を切々と、名文で訴え、その見事な漢文に感嘆した役人が、快く一行の入国を許可した。
凄さ❹ 密教の正統な唯一の継承者
金剛頂系と大日経系の二つの密教体系を習得した恵果は大唐でも唯一の僧であった。 恵果は、空海を自身の後継者として真言密教第八世法王の灌頂を与えた。
日本仏教界の頂点に立つ最澄が、7歳年下で身分も低い空海の弟子となったが、空海は、当然ながら、伝法阿闍梨の灌頂を最澄には授けず、更に最澄の『理趣経釈』借用申し入れを断った。 『理趣経釈』は経文『理趣経』の注釈書で、密教の根本原理にかかわる重要な書。
ウェブ情報(空海の密教の画像)から引用
凄さ❺ 留学のアイテムに『土木』も
知識だけでなく経典や仏具などのソフトも、ハードも真言密教のシステムまるごとを持ち帰った。 そのほかに「工巧明」という学問書も書写している。
ここにこそ工学や技術が含まれている土木の指南書である可能性がある。
凄さ❻ ひらがなの創始者(これからもエビデンス検証・研究がされる)
ひらがなを作ったのは空海であるという言い伝えがあるが、現在では俗説であると考えられている。 現存の平仮名文献は、その字体もまちまちであって、一通りでないことなど から、一個人の作ではなく、多くの人の手を経て徐々に整備されていった、 社会的産物と考えられている。
凄さ❼ 私費留学の長期滞在(vs最澄の超短期官費留学)
遣唐使の留学期間は、本来・当初は20年、この条件で留学する僧が激減。
末期は、1-2年の短期留学が多くなった。 空海は『早く帰国し学んだ知識を母国で、役立てたい・教えたい』の一心で、恩師『恵果』と相談し、空海は在唐2年余で帰国。 官費留学の最澄は在唐8ヶ月余で帰国。
(記事投稿日:2018/04/21、最終更新日2021/01/08、#173)
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