知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『鑑真の凄さ様々 1(5回目の挑戦で、海南島に漂流失明後、日本に渡航)』 『昨今の世情から,凡人には想像もできない,鑑真の使命感・生き様』

2022-03-13 11:52:27 | 偉人

『鑑真の凄さ様々 1(5回目の挑戦で海南島に漂流失明後、日本に渡航)

    『凡人には想像もできない、鑑真の使命感・生き様』 

 

奈良時代の鑑真と行基は、ともに渡来人として、両人物とも、日本のために力を尽くしてくれた人物です。 その違いは国籍と貢献内容でした。 

鑑真は唐人。 

行基は朝鮮渡来人系の日本人。

鑑真は日本の仏教の制度を整え、様々なものを伝えた。 

行基は国内インフラ制度の社会事業に貢献した。 

聖武天皇や行基が奈良の大仏を建立している頃に乱れた僧の風習をどうにかしたいと頼まれ、唐から日本にやってきたのが、鑑真で、皇帝からも才能豊かで博識高い僧侶として認められており、日本に行くことを止められていたほどの人物です。 しかし、日本から遣唐使の使いでやってきた普照と栄叡の必死の願いにより、鑑真は日本へ戒律を伝えに行くことを決意します。 

鑑真の来日については有名なお話の通り、来日に5度失敗し、遣唐使として来日した大伴古麻呂(おおとものこまろ)らの助けにより、6度目にして奇跡的に来日することに成功します。

その間、密航をばらされたり、投獄されたり、鑑真の目が失明したり、志半ばで栄叡が亡くなったりと波乱万丈の日本渡航でした。

 

日本における『律宗』の開祖

『律宗(りっしゅう)』は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。 中国で東晋代に戒律について翻訳されると、唐代には道宣が成立させた。 日本には鑑真が伝来させ、南都六宗の日本仏教の一つとなった。』

ウキペデイア情報から引用

釋鑒真・鑑真(唐招提寺に安置されている国宝「鑑真和尚像」)

名:淳于(俗姓)

号:唐招提寺住持

尊称:傳燈大法師

生地:唐朝揚州江陽縣 

 

688-763, 奈良時代の帰化僧

鑑真(がんじん、旧字体:鑑、繁体字:鑑真、簡体字:鉴真、688-763年、奈良時代の僧人。 日本における律宗の開祖。

奈良時代、日本人僧の求めに応じて日本渡航を決意した高僧・鑑真。 しかし渡航は失敗を繰り返す。 5回目の挑戦では漂流して海南島まで流され、鑑真自身が失明してしまう。 それでも日本の朝廷は鑑真の渡航を求め続ける。 実は鑑真以前にも何人もの高僧が日本にわたっており、大仏開眼の導師も務めていた。 それでも鑑真を招かなければいけなかった理由はなんだったのか?最新の研究をもとに、聖武天皇の目的と鑑真来日の意味をこれからは調べてみたいと思いました。 鑑真は、あの密教や天台宗の教えも伝えています。 空海や最澄も影響を受け、比叡山や高野山もなかったかもしれません。  

更に驚きですが、鑑真が、みそ汁や豆腐、漢方薬が伝えられています。 和食のルーツも、こうやって今でも食べられているのは、命を懸けて鑑真が持ってきてくれたからですね。

三大宗教の二つ、キリスト教とイスラム教の発祥は砂漠でした。 緑豊かな国・日本は『八百万(やおよろず)の神』だとか『無神教』また『無宗教』と言われます。 内田希氏の『鑑真、最澄、空海 -平安仏教の成立-』ウエブ情報の抜粋・引用です。 長文の引用ですが読んでない著書、みてない映画おありますので備忘録としました。 

『日本人は「無宗教」だ、という言説を見かけることがあるがこれは誤りだと思う。 基本的には日本は仏教(お寺さん)と神道(神社さん)のハイブリッドのような宗教環境にあり、目をつり上げて宗教活動、布教活動をすることは余りないが(カルト宗教以外は)、ケースバイケースでそれぞれの宗教儀式(お宮参りとか 法事とか)に参加することで、心の平安を得ている、という辺りではないだろうか。 日頃宗教に関心は無くとも、自分の家の宗教は何なのか、知っておくのも大人として何かの際に必要になるだろう。 この稿で取り上げる本は、8世紀の鑑真和上招聘から真言宗、天台宗が定着する9世紀までの日本仏教の確立期を扱った小説(または史伝)である。

 

『天平の甍』  

話は天平四年(西暦732年:奈良時代前半)から始まる。6世紀に伝来した仏教 は朝廷の保護により全国に広まっていたが、僧が守るべき戒律を定めた「戒」を授ける僧、戒和上が未だ存在していなかった。 日本仏教の完成を目指すべく、戒和上招聘を目的として第九次遣唐使に4人の日本僧が留学僧として参加するが、 その使命は簡単なものではなかった。 無事唐土に到着はしたものの、戒和上として日本に渡ってくれる僧は簡単には見つからない。 在唐10年、ようやく高名な学僧鑑真が、日本へ行こう、と言ってくれる。 しかし、妨害、難破、皇帝の不許可などで5回の渡日の試みが失敗し、その間、日本僧の内、帰国を拒む者、他の夢 を追う者が現れ、そして一人は唐土に客死する。鑑真和上も5度の渡日失敗の中 で失明してしまう。様々な困難の後、一人残った日本僧普照(ふしょう)はつい に鑑真和上一行と共に帰国を果たす。  井上靖氏の研ぎ上げられた日本語は簡潔かつ美しい。 できればこのような文章 を書いてみたいものである。 井上靖氏がもう少しご存命だったらノーベル文学賞日本人二人目は井上氏だったろう。

 

『氷輪』  

鑑真和上は日本に上陸し、和上招聘の目的であった 授戒の儀式が行われ、そして唐招提寺が建てられた、と一応のハッピーエンド的 に語られるが、「氷輪」は和上一行が都に到着した辺り(天平勝宝6年、西暦754 年:奈良時代中期)から始まる。  都に到着した一行は朝廷によって大歓迎を受けるが、その後の事態は鑑真らと 共に帰国した普照が思い描いていたようには進まない。 授戒権を握ることで仏教 界を完全に支配下に置くことを目論み、一旦、日本人の戒和上が誕生すれば唐僧達を棚上げ(用済み)扱いにしようとする朝廷、新参の唐僧に改めて戒を授けて 貰わないと僧として認められないことに反発する日本の仏教界、さらに朝廷内部での主導権争い、藤原仲麻呂の乱、道鏡事件。 教科書に載らない話と、教科書で は関連性抜きで語られる事件が複雑に絡み合い、歴史が進行してゆく。  修学旅行の定番となっている奈良の唐招提寺は、今でこそ立派な伽藍となっているが、鑑真和上の生きていた時代、そこは寺未満 の唐律招提という私塾に過ぎず、それも失脚した皇族の屋敷跡にその屋敷の古材を利用して建てられた粗末なものでしかなかった事をこの本で知った。 そのことを知ると、20年の歳月の果てに日本に戻った普照、5度の失敗にめげずに波濤をこえて来日した和上一行は、空しく感じなかったのだろうか、と思ってしまうが、そう思うのは私が凡人だか らなのだろう。 唐招提寺の、あまり観光客の行かない一角に、和上達が命がけで 伝えた「戒」を授ける戒壇の跡がある。

 

『曼陀羅の人』  

弘法大師空海、間違いなく日本史上のスーパースターの一人だろう。 この作品は空海の生涯の内、遣唐使に留学僧として同行して入唐(西暦804年;平安時代初期)するところから、20年滞在の予定を2年で切り上げて離唐するまでを扱っている。 海賊と疑われて上陸できないでいる遣唐大使の窮地を、名文達筆の手紙で 救う所から始まり、長安に着けば瞬く間に梵語(サンスクリット語)をマスターするわ、当時長安に集まっていた様々な宗教者と親交を結ぶわ、外連味たっぷりに密教の大阿闍梨(カソリックだとローマ法王みたいなもの)恵果のもとを訪ねれば「我先より汝の来るのを待つや久(来るのずっと待ってたよ)」と言わしめ、僅か三ヶ月足らずで密教を完全にモノにするとすぐに大阿闍梨の位を授けられ、東アジア密教世界のトップに立ってしまう。  頗る格好良く、日本人として痛快である。  「氷輪」で西域出身の少年僧として登場した如宝(にょほう)は後年唐招提寺を完成させた人とされている。 『曼陀羅の人』の中の空海の回想で、若き空海が老僧となった如宝と対話する場面がある。 ここで鑑真と共に来日した唐僧の名を見る と、旧知の人が苦難の末に平安を得たことを知らされたようで、懐かしく何だかホッとする。

 

『雲と風と 伝教大師 最澄の生涯』  

弘法大師と並び称される伝教大師最澄。 教科書では単純に並列標記されてしまうが、2人の運命は複雑な綴れ織りをなしている。 天衣無縫で数々の伝説に彩られた空海に対して最澄はあくまでも真面目である。  琵琶湖のほとりの豪族の子として生まれた最澄は仏門に入る。 時代は桓武天皇が国家事業として、新都造営(長岡京と平安京)、蝦夷(東北)征伐、遣唐使派遣を推し進めていた頃にあたる。 真面目に12年の山籠もりをした後、桓武天皇の近くに上がった最澄は、悩める帝を救わんと真面目に天台教学の研究を始め、日本国内だけでは限界があると感じると真面目に遣唐使とともに渡唐することを志願する。 空海と同じ遣唐使節で渡唐するが、長安には行かずに真面目に天台山に直行して大急ぎで教典を集め日本へ帰る。 帰れば古い仏教界と真面目に論争し、そして自分が唐で偶然のように拾ってきた密教が不完全なモノだと知ると、後から 戻った空海に真面目に弟子入りしようとする。  華やかな空海に比較して最澄は真面目で地味なように思えるが、彼の建てた延暦寺はその後、法然、日蓮などの日本仏教の指導者を多く輩出している。 天才空海に対して最澄は真面目な教育者として優れていたのだろうと思わせるその後の歴史である。

 

『空海の風景』  

香川県(空海の生地、讃岐)出身者には必読書だろう。 空海の生まれから入定まで、当時の社会情勢、歴史のうねり、最澄との絡みも含めて膨大な資料を基に分厚く描いている、所謂「司馬文学」である。 『曼陀羅の人』に比較すると、やや空海と距離を取っているようで、少し突き放しているような感じもうける。 空海と最澄の間で交わされた論争や、密教とは何か、についての司馬氏の解釈も興味深い それでは問題の理趣経、それから大日経と法華経も読んでみようか、という気になる。  高野山(真言宗の総本山)では、空海は入滅(死)したのではなく今でも奥の 院の廟所の中で定(じょう;生と死の間の定常状態?)にあるのだとされているらしい。 現在でも、毎日の食事と衣服を整える特別な役割の僧侶が存在しているそうである。  奈良時代は何々の乱とかが頻発し、都が結構血なまぐさいけれど、平安時代に入るとあまりそういうことがなくなる(武士の登場までは)。 真言宗、天台宗などが成立し、古代日本が成熟してきたということなのだろう。 理工系の人間は、「宗教」、と聞くと、迷信だ、と否定するのがかっこよさそうに見えるが、元来、宗教 と科学とは別次元のものだと思う。 歴史的には宗教の持つエネルギーは否定のしようがない。

 

『弘法大師御入定1150年御遠忌記念映画 空海』  

高野山の全面協力で作られた、弘法大師の生涯を描いた映画。 空海役は北大路欣也氏、最澄役は加藤剛氏、ほか大物俳優多数。 当時の歴史をかなり忠実にトレースしているので、観てから読んでも、読んでから観てもなかなか感慨が深い。

 

今回の追加を含め、余生の読書計画が、既にオーバーフロー状態です。

(記事投稿日:2022/03/13、#491)


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