『写真の魅力 (夕景は素晴らしい 3)利根川の支流 小貝川の向こうに沈む夕日を背景に「弧鳥」の帰巣』
小貝川 (こかいがわ)は、関東平野を北から南へと流れる 一級河川。 利根川 水系利根川の支流で、全長111.8kmで、利根川の支流中で第2位の長さです、低血圧症でも早起きはできましたが、やはり朝日より、温かく撮れる夕景が好きでした。 この二枚は小貝川の東岸から西岸を狙いました。
利根川は有名でどなたでもご存じですが、小貝川に纏わるいろいろな話は最近知りました。 江戸時代に利根川の東遷事業が行われ、鬼怒川と小貝川が切り離され、利根川へと合流するようになりました。 江戸湾(現在の東京湾)に流れ込んでいた利根川を現在の流れに人工的に変えたのは江戸時代のことです。 徳川家康が、天正18年(1590)に江戸城に入府すると、江戸湾に流れ込んでいた利根川を太日川、常陸川へと付け替え、千葉県の銚子へと流す現在の利根川水系の体系をつくりました。
ウエブ情報から引用
江戸時代の初め、鬼怒川は下妻付近で糸繰(依)川を介して小貝川とつながり、小貝川とほぼ並行して流れ、水海道から現在の小貝川に再び合流して、常陸川(現在の利根川)に合流していました。 鬼怒川・小貝川の分離は、利根川東遷事業の一環として、慶長13年(1608)から元和年間(1615~1624)初頭にかけて進められました。この事業の目的として以下のことがあげられます。
- 鬼怒川と小貝川を分離することで広大な湿地であった谷和原領一帯を洪水被害から守るとともに、新田開発を進める
- 鬼怒川と小貝川の分離によって東北方面の物資を早く江戸へ運ぶため、舟運による水上交通の確保を図る
その結果、広大な流域の開墾が可能となり、鬼怒川では北関東や東北方面との物資流通路として舟運も盛んになり、いくつもの河岸が川沿いに栄えました。
流域の歴史的変遷を示すものとして、鯨やイルカの化石骨が発掘されたことが上げられます。 鯨の背骨の化石は明治40年ごろ真壁郡騰波之江村宇津保谷で小貝川砂利発掘の際、イルカの頭骨の化石は昭和29年8月に竹島村八軒でそれぞれ出土したことが記録されています。 このことは、当時の環境を知る上で貴重な資料といえます。
夕景写真を撮ることが、小貝川の興味ある歴史に結び付けてくれましたし、 これも表題の『写真の魅力 (夕景は素晴らしい 3)利根川の支流 小貝川の向こうに沈む夕日を背景に「弧鳥」の帰巣』に繋がりました。
(記事投稿日:2024/03/16、#733)
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