◎新発見の峯尾節堂書簡(1911)二通
昨二七日、渋谷区代々木の正春寺で、「大逆事件処刑一〇八回追悼集会」が開かれた。「大逆事件の真実をあきらかにする会」が主催する、年に一度の集会である。
開会の一〇分ほど前に、会場に着くと、受付には列ができていた。事務局の大岩川嫩〈オオイワカワ・フタバ〉さんにご挨拶し、会報『大逆事件の真実をあきらかにする会ニュース』第57号ほかを受けとる。
会場の座席は、あらかた埋まっている。あいかわらずの盛会である。大杉豊さんと木村まきさんの間の席に座らせていただくと、早くも、会代表の山泉進さんから、開会の言葉があった。開会のあとは、一同、管野スガの墓前へ移動して管野スガの墓前祭。そもそも、ここ正春寺を、追悼集会の会場にしているのは、ここに管野スガの墓があるからであろう。また、この時期に追悼集会が開かれているのは、一九一一年(明治四四)一月二四日に幸徳秋水はじめ十一名が、同月二五日に管野スガが絞首刑に処されているからである。
会場に戻ると、全国から参集された皆さんからのご報告がはじまった。司会は、いつもの通り、山泉進さん。会報第57号をめくりながら、それらの報告を拝聴する。
会報の五四~五六ページに、中川剛マックスさんの「資料紹介・峯尾節堂の沖野岩三郎宛獄中書簡」という一文がある。新発見の峯尾節堂書簡(郵便はがき)二通が影印つきで紹介され、それについて詳しい解説が付されている。貴重な一文だと思った。
峯尾節堂は、臨済宗の僧侶で、大逆事件(幸徳事件)に連座し、一九一一年(明治四四)一月一八日、死刑判決を受けたが、翌一九日、特赦で無期懲役刑に減刑されている。
ハガキのうち一枚は、オモテ面の最後に「一月/十九日認〈シタタム〉」となっている。ウラ面の最後は、「大兄健全におはせ さらバ」となっている。この文面からすると、無期懲役刑への減刑を知らされる前、すなわち、死刑判決を聞いて死を覚悟していた段階で書かれたハガキということになろう。
また、文面中、「万事皆な不可解也」という一句がある。この「不可解」という言葉だが、藤村操の「巌頭の感」(一九〇三年五月二二日)の影響が及んだ可能性があるとみた。
なお、中川剛マックスさんには、『峯尾節堂とその時代』(風詠社、二〇一四)という著書がある。峯尾節堂についての研究書としては唯一のもので、かつ信頼できる優れた研究である。