◎天才ヴァイオリニスト諏訪根自子の帰国
『アサヒグラフ』一九四六年(昭和二一)一月五日号の二一ページには、天才ヴァイオリニストと言われた諏訪根自子〈スワ・ネジコ〉の写真が大きく掲載されている。ドイツに滞在していた彼女が、アメリカでの抑留生活を経て、十年ぶりに帰国したときの写真である。その写真の横には、次のような記事があった。
演 奏 会 は お 預 け 諏訪根自子嬢
冬の日の暮れるのは早い。浦賀の埠頭もそろそろ暗くなつて来た午後四時半。漸く米船ヂエネラル・ランドール号から艀〈ハシケ〉が着いて大島〔浩〕大使の一行が人々の注目を浴びて上つて来た。終戦後、始めて故国に還り〈カエリ〉ついた千七百の人間がそれぞれ出迎への人を求めて埠頭を右往左往するので混雑は一通りではない。その群衆の中に鼠色の粗末な外套に頭をネツトで包んだ長身の諏訪根自子さんがシヨンボリとして居た。今から十五年ほど前、天才少女として楽壇にデビユーした時のあの明哲な面ざし〈オモザシ〉は確かに残つてゐる。しかし随分老けた――もう廿六といふから、かういふ形容詞も許されよう。かなり痩せて疲れ切つた感じだ。
「第一印象は?」
「全で〈マルデ〉夢のやうで」
といふ答は月並だが、どこまでも低い淋し気な声音【こはね】には充分感情が籠つてゐる。本来なら十年間の留学を終へた帰朝とあれば弥【いや】が上にも華手〈ハデ〉なるべきものをどうやら彼女を出迎へるべき家族の姿も見当らないらしい。
「それが例の名匠ストラドヴアリの作つたヴアイオリンですか」
「はあ。一昨年〔一九四三〕ゲツベルス宣伝相から贈られた……これだけは生命がけで大切にして来ました」
とズツクの被ひのかゝつた大きなケースを改めて抱き直す。このケースの他には小さな鞄が一つ、それが彼女の荷物だ。
「演奏会は巴里では三回致しましたが昨年〔一九四四〕ドイツへ参りましてからは出来ませんでした。米国で抑留中は大島〔浩〕大使夫人〔大島豊子〕の主催で一回、お仲間の皆さまをお慰めするために近衛〔秀麿〕先生の伴奏で致しましたけれど……」
記者は日本は戦〈タタカイ〉に敗けても音楽熱は決して衰退してゐないことを告げた。
「これから直に演奏会をやる自信はございません。とても体も疲れて居りますし気持も乱れてゐるので……。すつかり恢復してから勉強し直してそれから致し度いと存じます。」
慎重といふのか謙遜といふのか、しかしラジオのフアンを始め日本の好音家は一日も早く彼女の磨きのかゝつた妙音に渇えて〈カツエテ〉ゐる。もう埠頭は真暗になつた。写真班のフラツシユが彼女の全然白粉気【おしろいけ】のない顔を青白く照すと彼女は「失礼」といつたまゝまた群集の中に入つて行くのだつた。
誰の執筆かは知らないが、なかなかの名文である。
ところで、元駐独大使の大島浩、ヴァイオリニストの諏訪根自子らを載せた船が、浦賀に入港した日はいつだったのか。この記事は、その日付に言及していない。インターネットで調べても、その日は、なかなかわからなかった。
やむをえず、船の名前「General Randall」で検索してみたところ、ウィキペディアの項「USS General George M. Randall (AP-115)」がヒットした。そこには、次のようにある。
As part of the Magic-Carpet fleet, General George M. Randall made six voyages from San Francisco and San Diego, California to the Far East, calling at Japan, China, Okinawa, and the Philippines. The first two of these trips were to re-patriate Japanese diplomats and their families back to Japan. On the first, she left San Pedro for Long Beach on 8 October 1945, and from there sailed on 18 October for Yokohama, Japan, where she arrived 29 October. She returned to Seattle on 12 November, loaded with returning service personnel, and sailed once more for Yokohama on 25 November. She arrived there on 10 December, and returned to Seattle on 19 December. She proceeded to San Francisco on 12 January 1946. Her Coast Guard crew was removed on 31 January 1946, and she was returned to Navy control.
これによれば、米国艦船(USS)ジェネラル・ランダル号は、一九四五年(昭和二〇)年の後半、サンペドロから横浜へ、横浜からシアトルへ、シアトルから横浜へ、そして横浜からシアトルへ、というふうに、太平洋を少なくとも二回は往復している。そのうち、諏訪根自子らが乗っていたのは、一一月二五日にシアトルを出発し、一二月一〇日に「横浜」に着いた便であろう。すなわち、諏訪根自子が浦賀港に着き、アサヒグラフの記者のインタビューを受けたのは、一九四五年一二月一〇日ということになるか。